鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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(1)英一蝶筆釈迦如来画像重要である。氏によれば、この御影は参詣者にとても好評であったそうで、とくに「小御影」は表装のありなしやその種別が細かく分かれているが、あわせて6万近い数が事前に用意されており、なおかつ会期中の品切れを予想して現地で製造するための紙と版木も事前に準備されていたという。この御影を含む「開帳弘め物」の記録は享和元年の出開帳に際するものであるが、数万単位での準備は過去のデータにもとづいているはずであり、釈迦堂再建費を目的した初回の時点からすでに取り扱っていた可能性は十分考えられる。そして、この御影と思しい版木と版本が清凉寺及び神奈川県立金沢文庫にそれぞれ現存していることが今回の調査で明らかとなった。それらを合わせて、次章では出開帳と関連して制作された作品及び資料に関する今回の調査の成果述べたい。2、清凉寺像の江戸出開帳に関連する作品の調査清凉寺像の出開帳関連作品として、先行研究で既に指摘されているのが、英一蝶筆釈迦如来画像である。さらに彫刻では筆者が以前に展覧会で紹介した足立区立郷土博物館所蔵の清凉寺式釈迦像がある(注9)。以下、(1)英一蝶筆釈迦如来画像、(2)清凉寺像版木、(3)清凉寺像版本、(4)清凉寺式釈迦像(足立区)の順に調査内容について記していく(注10)。港区承教寺所蔵。絹本着色、本紙は縦102.8cm、横56.3cm、釈迦像の像高は約30.0cmである。画面中央に雲に乗って飛来した清凉寺釈迦像をあらわし、その背後には画面全体に入母屋造で唐破風を備えた宮殿型の豪奢な厨子を扉が開いた状態で描き、釈迦像が厨子内に影向した瞬間を表現している〔図2〕。落款印章は画面右下に金泥による「北窓翁一蝶謹画」及び朱文円印(判読不能)。本作の制作時期については「北窓翁一蝶」の署名が手がかりとなる。一蝶は元禄11年(1698)に罪人となって三宅島に流され、その後宝永6年(1709)将軍交替の大赦により赦免されて江戸に戻り「英一蝶」と改名、享保9年(1724)に没するまで活動を続けたとされている(注11)。したがって先行研究において、本作は一蝶が三宅島配流から江戸に戻った宝永6年以降の作であり、一蝶自身が「今や戯画を事とせず」と宣言した最晩年の画風を窺わせる作品に位置付けられている(注12)。さて、先述のとおり本作は清凉寺像の江戸出開帳との関連性についても言及されている。坂輪宣敬氏・奥健夫氏は本作の制作背景について、出開帳の開催期間と一蝶配― 215 ―― 215 ―

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