(4)清凉寺式釈迦像(足立区)は微妙に異なっているが、これは一蝶がアレンジした可能性が高い。あるいは、一蝶は「小御影」を手本としており、それは称名寺本の図様と似つつも衣文や光背の表現が若干異なるものであったのかもしれない。いずれにしても、一蝶の描いた釈迦像は称名寺本と極めて似ていることが分かった。これにより、称名寺本は元禄13年の出開帳から頒布され始め、ある時点で彫り直されるまで流布した御影と考えることができよう。と同時に、清凉寺に現存する版木(ア)は元禄13年の出開帳以前に制作されたものであり、釈迦像の近世最後の出開帳が行われた万延元年(1860)より以前に埋め木による彫り直しが行われたと推測できる。本像は像高59.5cm、ヒノキ材による寄木造で、玉眼を嵌入し、頭髪部は群青彩、肉身部は金泥、衣は漆箔仕上げとなっている〔図9〕。制作年代は18世紀から19世紀前半に位置づけられる。なお、騎獅文殊菩薩・騎象普賢菩薩の脇侍像を従えており、通常は独尊の清凉寺式釈迦像においては珍しい三尊像となっているが、作風や表面の仕上げに違いがみられるため、当初から三尊像ではなく後に脇侍像が加えられたとみられる。三像は足立区保木間地域において近世から民間で維持されてきた大般若経を収納する経蔵の内部に安置されていたが、詳しい来歴は不明である(注18)。本像は一見して清凉寺像の模像であることに疑いはなく、さらに当初の光背・台座も備えており、とくに光背も清凉寺像のものを模している点が特筆される〔図10〕。しかしながら、細部の形状をみると清凉寺像の光背と明らかに違う部分があり、同時にその部分は実は(1)や(2)の釈迦像の光背と共通しているのである。具体的にいうと光脚部の宝相華の花葉文の形状である〔図11〕。今回調査した作品の光背は、いずれも光脚部の花葉文の左右端の花弁が大きく開いて光脚部や周縁部から外側に飛び出るようにあらわされている。これは清凉寺像の光脚に浮彫された花弁の表現からはかなり逸脱したものであるといえよう。このように光脚部の花葉文の花弁の一部が大きく飛び出すという表現は、画像においてはともかくとして、彫刻の光背の場合では、制作上において余計な手間がかかることは容易に想像がつく。このことから、この釈迦像は(1)と同様に出開帳で頒布された御影を模して制作されたと考えられる。つまり、本像は清凉寺像の模像と捉えられるものの、厳密には二像の間には御影の釈迦像が介在しているのである。― 218 ―― 218 ―
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