鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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(A) 独尊の閻魔天(B)  閻魔王像(もしくは閻魔天)を中尊とする五尊形式 (C) 地蔵菩薩を中尊とする三尊形式(地蔵・閻魔王・泰山府君または俱生神)(D)  地蔵菩薩を中尊とする地蔵十王像 (E)  閻魔王を中尊とする十王像 (F)  その他 (閻魔王・泰山府君・五道大神・司命・司録)(地蔵・十王、場合によっては司命・司録が加わる)(十王・司命・司録・場合によっては奪衣婆・鬼卒・業秤・浄玻璃鏡が加わる)(閻魔王・地蔵。奪衣婆〈独尊〉など)続いてこの分類に基づき、現在確認されている各尊像構成の最古の作例を取りあげてみたい。構成(A)については12世紀前半の京都・醍醐寺閻魔天騎牛像があげられる。本像は待賢門院(1101~45)御産に際して執り行われた閻魔天供に使用されたと考えられる像である。その制作年代は『御産御祈目録』で確認できる御産のうち、最も早い天治元年(1124)頃と考えられている(注4)。この頃は閻魔天供が活発に行われていたようであるが、閻魔天像を独尊で安置するための閻魔堂が造営された形跡は今のところ確認されていない。醍醐寺像も12世紀後半の時点では他の尊像と共に醍醐寺薬師堂に安置されていた状況が指摘されている(注5)。構成(B)の可能性があるものとして、貞応2年(1223)造像の醍醐寺閻魔堂像があげられる。醍醐寺閻魔堂は現存しないものの、『醍醐寺新要録』から快慶と湛慶によって「炎魔王」と「泰山府君・五道大臣・司命・司録」が造像されたことが判明する(注6)。醍醐寺閻魔堂像については、閻魔天曼荼羅に基づく、閻魔天を中尊とした十一尊で構成されていたとする意見もあるが(注7)、五尊の作者として快慶と湛慶の名前が特筆されていることから、少なくとも閻魔堂の主要な尊像は五尊であったと思われるため、ここに取り上げる。一方で、醍醐寺閻魔堂は鳥羽平等院の扉絵を写したことが判明している(注8)。鳥羽平等院とは、保延6年(1140)に鳥羽離宮で供養された炎魔天堂に該当することが指摘されている(注9)。鳥羽炎魔天堂安置像については現存せず記録も残されていないが、京都国立博物館本や園城寺本の閻魔天曼荼羅に見られる忿怒相で着甲する閻魔天を中尊としていた可能性が指摘されている(注10)。鳥羽炎魔天堂安置像も五― 13 ―― 13 ―

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