鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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㉒ 15、6世紀呉派文人画壇の名勝図制作─石湖図をめぐって─序研 究 者:公益財団法人大和文華館 学芸部部員  都 甲 さやか明代15、6世紀に活躍した呉派文人画壇は、故郷である蘇州の名勝をたびたび絵画化した。特に16世紀後半からは、紀遊趣味の流行を受け、蘇州外の名勝も数多く描かれるが、地元の名勝を描くことには依然として高い関心を示した。これには、古来より文人墨客に愛されてきた蘇州への顕彰意識があったと考えられる。絵画化にあたっては景勝美を表すだけでなく、その地に蓄積した歴史的・文化的背景、なじみの名勝への思慕が、常に念頭にあったとみるべきだろう。それが絵画表現にいかに反映され、共有されていたかは、呉派文人による名勝図制作を考えるうえで重要な課題といえる。本稿では、石湖という名勝の絵画化に焦点をあて、その一様相について考察を試みたい。すなわち16世紀呉派文人画壇の中心人物である文徴明(1470~1559)の石湖図が、後の世代の石湖図の祖型となり、様々な石湖図が生み出される契機となったことを指摘する。更に後世の画家達は、石湖ゆかりの文人画家・文徴明に想いを向けつつ、文雅の地としての石湖を表すうえで最もふさわしいフレームとして、文徴明石湖図を選択的に踏襲していた可能性を述べたい。1.15、6世紀呉派文人画壇の石湖図石湖は、蘇州西南に位置する太湖の一支湾をなす湖である〔図1〕。呉越春秋の史跡を有する景勝地として古くから知られ、南宋の范成大(1126~93)、元の楊維禎(1296~1370)、顧瑛(1310~69)といった著名な文人達によって、度々詩文に詠まれてきた。湖畔の連山には、治平寺、楞伽寺などの古刹を擁し、文人墨客がこの地を訪れる機縁となった(注1)。そして明時代の15、6世紀には、文徴明や唐寅(1470~1523)、王寵(1494~1533)といった呉派文人サークルの雅会の地となり、数多くの詩書画が生み出された。更に彼等の石湖をめぐる活発な交友は、芸術作品に留まらず、范成大をまつる「范成大祠」の創建(正徳16年【1521】)、地理誌『石湖志略・文略』の刊行(廬襄撰、嘉靖7年【1528】序)などを牽引した(注2)。文徴明を始めとする15、6世紀の呉派文人は、文雅の地としての石湖の名声を高めるのみならず、石湖にまつわる地理的・文化的記憶を整理し、後世へと伝える役割を担ったといえる。― 224 ―― 224 ―

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