1-1.文徴明の石湖図今日、文徴明筆とされる石湖図は数多く伝わるが、制作年が明らかであり、かつ真筆とみなされる作に《石湖花游曲詩画巻》(詩巻:正徳9年【1514】、画巻:正徳15年【1520】、上海博物館)〔図2〕及び《石湖清勝図巻》(嘉靖11年【1532】、上海博物館)〔図3〕の二作品がある。後世の石湖図を概観するとき、特に《石湖清勝図巻》の絵画表現は、石湖表象の祖型として描き継がれていったことが窺える。まずこの二作品の制作背景と絵画表現を概説し、後世の文徴明石湖図に対する認識の一端を探りたい(注3)。《石湖花游曲詩画巻》は、正徳9年(1514)に、文徴明が友人の王守(1492~1533)のために「石湖花游曲詩」詩巻を書し、その6年後、詩巻に合装するため画巻を制作した。「石湖花游曲詩」は、元の至正8年(1348)、楊維禎、顧瑛といった玉山草堂のメンバーが、妓女を伴って煙雨の石湖に游んだ際に詠まれた一連の次韻詩である。したがって画巻は、「石湖花游曲詩」を生み出した彼等の雅会を鑑賞者に想起させるべく、画面構成がなされている。例えば石湖を鳥瞰的視点により、凡そ北東側から南西に向かって一望することで、湖畔の連山を大きくとらえ、雨後に一行が訪れた雅会の地・宝積寺(楞伽寺の元代の寺名)を頂く上方山が、画面左上に大きく配される。山々には温かい青緑と淡緑を施す。治平寺、妙音庵といった山中の古刹も配され、画面前方には八穴の行春橋と、その上を渡る文人と妓女の一群を描く。《石湖清勝図巻》は、制作して25年後の嘉靖36年(1557)頃、現在傍らに合装されている文徴明の詩巻(嘉靖36年【1557】)と共に張鳳翼(1527~1613)に贈られたと考えられる。現在残るだけでも文彭(1498~1573)、文嘉(1499~1582)、王世貞(1525~93)など蘇州文壇の名士9名の跋が附されており、蘇州文人等の間で愛され、鑑賞されてきたことがわかる。本図は石湖をほぼ北から南向きにとらえ、《石湖花游曲詩画巻》と同様に連山には淡緑を施すが、太湖へと続く広大な水景が大きく表されている点が異なっている。この構図は、元末の文人画家・黄公望《富春山居図巻》(台北故宮博物院)の一場面を踏襲したもので、文人画家としての矜持にもとづく制作態度が窺える。湖畔の連山は画面右に積み重ねられ、山頂の楞伽寺塔は画面右上に樹木と見紛うばかりに小さく配される。前方には行春橋と越城橋が連なるが、両橋間の堤は現実の地形と異なり、一本の道として続くように改変されている。文人や漁師、湖面に浮かぶ舟も描かれる。時間軸の定かでない表現は、鑑賞者に石湖にまつわる記憶の自由な想起を促す。以上二つの石湖図は、各々の制作背景の相違などに基づき、視点選択やモチーフが― 225 ―― 225 ―
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