異なっている。しかし「コ」の字型に湖水を包むかのような連山の配置、楞伽寺塔を頂く上方山、山中の寺、行春橋など、石湖を絵画化するうえでの大まかな構図と定型モチーフを定め、後の画家達が石湖を描く際に参考にすべきイメージを提供したと考えられる。1-2.次世代における石湖図の展開文徴明の拓いた石湖表象は、息子や直弟子達といった次世代にどのように継承されたのだろうか。ここでは文嘉、陸治(1496~1576)、銭穀(1508~78?)の例をあげ、その一様相を探りたい。文徴明の次子である文嘉は、父の画風を顕著に引き継いだ絵画制作を行った。父の属する蘇州文人サークルの一員として、石湖をめぐる雅会にも度々列席していたと考えられる。また《石湖花游曲詩画巻》には嘉靖45年(1566)、《石湖清勝図巻》には年代不詳の後跋を附しており、両作品を実見し、その成立背景を知り、後世へと伝えるうえでも大きな役割を果したといえる。石湖図も四点伝わっており、現在台北故宮博物院に所蔵される《石湖秋色図》〔図4〕は、制作年は不詳だが、《石湖清勝図巻》の構図を踏襲していることから、嘉靖11年(1532)以降の作とみられる。画面右側に、石湖湖畔の連山を重ね、とりわけ最上部の上方山は《石湖清勝図巻》以上に高く屹立し、その頂に聳える楞伽寺塔も大きく表される。この箇所については《石湖花游曲詩画巻》における表現を取り入れたとも解せる。山の端は、湖面に滑り降りるかのように弓なりに伸びていく。ただ、《石湖清勝図巻》が淡彩画であったのに対し、本図は墨画であり、画面も縦長のフォーマットに再構成されている。このため《石湖清勝図巻》で描かれていた越城橋と、湖水にそって伸びる遠山、広大な湖水は画面から削除され、やや閉塞感をともなう。しかし本図の縦長のフォーマット、楞伽寺塔を頂く上方山を大きく配した構図は、侯懋功《山水図》(隆慶4年【1570】、北京故宮博物院)といった軸装の石湖図などに継承され、石湖表象の幅を大きく広げたとみられる。銭穀は様々な紀遊図冊を描いたことで知られるが(注4)、画巻形式の《石湖図巻》(台北故宮博物院)、画冊形式の《石湖八景》(同左)などの石湖図が伝わる。特に石湖のランドマークを八図に分けた《石湖八景》のうち、第一図「石湖」〔図5〕は、石湖の全景を一画面に捉え、構図は概ね《石湖清勝図巻》を踏襲する。ただ本図は、《石湖清勝図巻》では削除されていた、行春橋と越城橋間の堤、その北側に伸びる陸地が描き込まれている。型に依拠しつつも、より実際の地形に意識を向けた銭穀の制作態度が表れているといえる。― 226 ―― 226 ―
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