鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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陸治の石湖図は、《石湖清勝図巻》の構図をほぼそのまま踏襲し、扇面へと落とし込んだ《遠浦風帆図》(台北故宮博物院)、治平寺周辺の山景を大きく捉えた《大呉歌図巻》(リートベルク美術館)など、様々な作例がある。嘉靖37年(1558)に制作された《石湖図巻》(ボストン美術館)〔図6〕は、行春橋と越城橋付近の地形を大写しにして石湖を表す。本図の両橋間の地形は《石湖清勝図巻》同様、北側の陸地が排除され、ひと連なりの道として表されている。全体の構図ではなく、一部のモチーフに着目し、石湖表象の手段として取り入れていたことが窺える。以上のように、次世代の画家達は、自身の解釈による新たな表現で石湖を描きながら、一方で文徴明の拓いた石湖図の型とモチーフを守り、軸装・画冊形式・扇面画といった様々なフォーマットの中に再構成していった。彼等にとっては、型の踏襲そのものが師である文徴明を懐うことであり、石湖の名声を高めた文徴明の記憶を、絵画表現の中に内包することでもあっただろう。彼等が継承し、幅を広げた石湖表象は、明後期以降どのように発展してゆくのだろうか。2.明代後期における名勝図冊の流行と石湖図明代後期には、紀遊趣味の興隆に伴い、各名勝を一図に描いて連作とした、画冊形式の名勝図が数多く生み出された(注5)。こうした背景のもと、「姑蘇十景」「蘇台十二景」等と称する蘇州名勝図冊が多数制作されている。現存作例を鑑みると、作者は概ね蘇州出身の画家で、制作背景には故郷を称揚する思いが存分にあったとみられる。そしてその中には「瀟湘八景」の如く、各名勝に異なる時間帯や気候をあてがい、「虎丘夜月」「霊巌積雪」といった画題のもとで表した作例が少なくない。各景に選ばれる名勝や画題は必ずしも一定ではないが、その中で石湖は概ね「石湖煙雨」という画題のもとに絵画化されてきた。17~19世紀の石湖図を概観すると、この「石湖煙雨」画題の作例が多数を占めており、蘇州名勝画冊の一図として、数多く制作されたことを窺わせる。清代の金佶《石湖煙雨図》(天津市芸術博物館)のような独立した作例も数点残ることから、後に石湖を描く際の恰好の画題として広まったと考えられる(注6)。現存作例を鑑みると、「石湖煙雨」の絵画表現は、そのほとんどが《石湖清勝図巻》の構図を踏襲している。厳密には、先述の文嘉《石湖秋色図》のような縦長のフォーマットを継承したといえるだろう。ただ雨天の景であるため、橋上の人物が、文人風の人物から傘をさして歩む人物に変わり、天にわだかまる雲、山下に漂う煙霞の表現がより強調されている。「石湖煙雨」の画題をもつ早期の作例としては、明末の張宏― 227 ―― 227 ―

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