(1577~1668~?)《呉中勝覧図冊》(崇禎5年【1632】、北京市文物商店)〔図7〕の一図、同じく張宏の《蘇台十二景図冊》(同11年【1638】、北京故宮博物院)の一図、そして《蘇台勝覧図冊》(崇禎10年【1637】、上海博物館)中の盛茂燁(?~1594~1640~?)による一図がある。また同時代人の作例として、袁尚統(1590~1662~?)《蘇台十二景図冊》(上海博物館)、卞文瑜(1576~1655)《江南小景図冊》(北京故宮博物院)の中の一図も伝わる。各々の作品は、画風こそ異なるが、煙雲が漂う中、楞伽寺塔を頂く上方山と、連山中の治平寺や妙音庵を画面右に配し、画面前方に行春橋と、ときに越城橋を表す点は一貫している。更に傘をさす人物、籠を提げる人物が橋を渡り、湖水には舟が浮かび、ときに橋の袂に停泊するなど、画面を構成する主要なモチーフもほぼ共通する。張宏、袁尚統、盛茂燁については、《蘇台古蹟図冊》(台北故宮博物院)という名勝図の合作が伝わり、その中では盛茂燁が「石湖煙雨」を描いている。〔図8〕このことは、彼等蘇州の画家達のあいだで「石湖煙雨」の画題及びイメージが共有されていたことを窺わせる。文嘉を始めとする16世紀中後期の画家達が、文徴明の石湖図を継承しつつも比較的多彩な石湖表象を生み出したことを鑑みると、17世紀前中期の「石湖煙雨」画題は、その中から《石湖清勝図巻》の型を選び、半ば頑ななまでにそれを用いているといえる。以下、なぜこの型が選ばれたかを、構図と画題の観点から考察したい。構図について言えば、《石湖清勝図巻》の茫洋とした水景を表す構図は、雨天の景を表す際にも非常に効果的であったと考えられる。すなわち「石湖煙雨」画題の作品は、画面左に境界を分かたない湖水と天を配し、烟雲をその空間と右の上方山周辺に漂わせることで、石湖全体にたちこめる雨天の湿潤な空気を表すことに成功している。ただ《石湖清勝図巻》は、清々しい晴天の石湖を描く作であり、淡彩表現は、湖畔の緑が陽光に照り映える様を表すものでもあった(注7)。「石湖煙雨」は、祖型である《石湖清勝図巻》の石湖表象における重要な要素であった天候を改変し、型のみを踏襲したことになろう。また「石湖煙雨」という画題に着目したい。煙霞立ち込める石湖の景は、古来より詩文などに詠われ賞賛されてきたが、明代後期に入り、雨天の景が注目されたのはなぜだろうか。そもそも「石湖煙雨」という画題が、名勝図冊中の一図として描かれる場合が多かったことを鑑みると、「瀟湘八景」における「瀟湘夜雨」の如く、雨天を委ねる景として選ばれたとみることもできる。しかし雨天の石湖には、文人雅集の記憶も内包されていることを想起したい。第一章で述べたように、元の楊維禎等は、煙雨の石湖にて雅会を行った。この雅会の記憶を詩画巻として留めたのが他ならぬ文徴― 228 ―― 228 ―
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