明の《石湖花游曲詩画巻》であった。本作の名声とともに、煙雨の石湖もまた、往時の文雅をしのぶ景として、同時代の人々に広く認識されていたのではないか(注8)。蘇州出身の画家である張宏や盛茂燁等は、各名勝に伝わる文人雅集を理解しつつ、名勝図冊を制作していただろう。「石湖煙雨」画題は、元の楊維禎等の雅会と、文徴明の石湖図の記憶を、その画題と構図において鑑賞者に想起させるものでもあったと考えられる。3.乾隆帝南巡以後の石湖図清・乾隆22年(1757)の乾隆帝(在位1735~95)による二度目の江南巡行、すなわち第二回南巡は、石湖表象に多大な変化をもたらした出来事として指摘されている(注9)。乾隆帝が石湖を通るにあたって、湖畔の石仏寺(かつての妙音庵)がその行宮として整備され、また湖中には湖心亭というランドマークが新たに創建された。徐揚《盛世滋生図巻》(乾隆22年【1757】、遼寧省博物館)〔図9〕の石湖は、この二つのランドマークを画面の正面にとらえた、概ね東側から西の連山を望む視点で描かれる。本作品以降、石湖図はこれと同じ視点から描かれるようになるのである。この視点選択は、言うまでもなく、乾隆帝南巡の地としての石湖の記憶を、何より先んじて鑑賞者に想起させるためのもので、19世紀前半の袁沛《石湖天鏡図》(日本・個人蔵)〔図10〕などの石湖図に継承されるほか、郭衷恆撰『蘇州名勝図詠』(乾隆24年【1759】序)等の挿絵版画、大衆向けに売られた蘇州版画にも採用され、石湖イメージの主流になっていったと考えられる。しかしその一方で、文徴明画を祖型とする石湖図も描かれ続けている。清の張伯鳳《停雲館紀遊図冊》(嘉慶24年【1819】、広東省博物館)〔図11〕中の石湖は、《石湖清勝図巻》と同様の構図と視点で描かれる。款記によれば、文徴明に倣った作だという(注10)。本図の画面左中部の湖面には、新たに湖心亭というモチーフが加わるが、行春橋の上を渡る文人達、茫洋とした湖水に浮かぶ舟などは、文徴明が拓いた石湖図のモチーフを引き継いだものといえる。画面左上の張伯鳳の自題は、南宋の范成大、春秋時代の闔閭、范蠡といった石湖ゆかりの文人・歴史人物とともに、石湖の水景の向うに続く太湖について想起している(注11)。本図において《石湖清勝図巻》の構図が用いられたのは、文徴明に倣う作であったことにもよるだろう。しかし自題からは、張伯鳳が乾隆帝ではなく、それ以前の石湖にまつわる文人墨客と歴史人物、そして石湖の広大な水景に想いを向けていたことが窺える。張伯鳳は、南巡以前の石湖への思いから、この構図を選んだのではないか。― 229 ―― 229 ―
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