尊形式であった可能性も考えられるが、醍醐寺閻魔堂の際に参照しているのが「扉画」であったことを鑑みると、閻魔天以外は立体化していなかった可能性も考えられる(注11)。鳥羽炎魔天堂の位置づけを考えるうえで重要な点は、日本で確認されている最古の閻魔堂の記録であり、後世の閻魔堂の原型になっている可能性が考えられる点である。構成(B)の現存作例として確実な作例は、13世紀前半の制作と思われる京都・宝積寺像となる(注12)。宝積寺像は五尊を完備して現存する貴重な作例である。構成(B)に見られる特徴として、当初の堂宇は現存しないものの、冥府彫像を安置するための閻魔堂が像と共に造営されている点があげられる(注13)。構成(C)の現存最古の作例は嘉禎3年(1237)造像の奈良・東大寺念仏堂像である(注14)。東大寺像が作られた頃の奈良地方では春日山をはじめとする地蔵信仰が流行しており、この構成の主体は地蔵菩薩であったと思われる。また、構成(C)は地蔵菩薩に冥府彫像が付随するため、閻魔堂に安置されない点が構成(B)とは異なる(注15)。構成(D)はいわゆる地蔵十王と言われるもので、比較的早い彫像の作例としては大分・臼杵磨崖仏のうち地蔵十王像(ホキ石仏)があげられる。臼杵磨崖仏・地蔵十王像は12世紀末から14世紀にかけてと制作年代に諸説ある(注16)。その他に、13世紀半ば頃の制作と思われる奈良・十輪院の石仏龕に刻まれた地蔵十王像がある(注17)。地蔵十王像として確実な初期の作例が、いずれも石像である点は興味深い。構成(D)も、構成(C)と同様に主体は地蔵菩薩にあると思われる。構成(E)は銘記が判明する早い作例としては時代が下り、応永28年(1421)の銘文を有する神奈川・昌清院の十王坐像、俱生神坐像、奪衣婆坐像があげられる(注18)。その他にも、永享5年(1433)の十王坐像および司命・司録坐像などがあるように(注19)、15世紀になると構成(E)は確認件数が増加する。構成(E)は閻魔堂(十王堂)に安置される例が多く見られ、その信仰の主体は十王像にあると思われる。〔表1~3〕から尊像構成の流行を読み解くと、(A)は現状では醍醐寺像が唯一の例となっており、管見の限りこれ以降の作例は認められない。(B)、(C)、(D)は鎌倉時代に散見するが、時代が下るにつれて減少する傾向が認められる。代わりに構成(E)が増加する傾向にあり、近世にかけて主流となっていく感がある。閻魔王を主体とする構成の流行が構成(B)から構成(E)に変化していく様子は、造像当初は構成(B)であった冥府彫像が、後世に像を補われ構成(E)として再興した例からもうかがえる(注20)。― 14 ―― 14 ―
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