注⑴傅立萃「明代蘇州絵画与文人的僧寺遊(明代蘇州絵画にみる文人の「寺遊」)」特別展「蘇州の見る夢─明・清時代の都市と絵画─」開催記念国際シンポジウム報告書『蘇州をめぐる諸問題─中国と日本の観点から─』大和文華館、2016年3月、176~177頁なぜなら乾隆帝南巡後の石湖図の視点は、太湖へと続く石湖の広大な水景を閉じ、それと同時に乾隆帝以外の記憶を想起しづらくしてしまったからである。また蘇州出身の文人画家である張伯鳳は、当時民間に流布していた石湖図のイメージではなく、文徴明の構図を用いることが、故郷を同じくする文人画家として好ましいととらえたのではないだろうか。結語本稿では、文徴明の拓いた石湖図の型が後世によっていかに継承されてゆき、新たな石湖表象を生み出す契機となったかを考察してきた。今後はこうした背景をふまえつつ、それぞれの作品の制作背景、鑑賞された場などに焦点をあて、15、6世紀呉派文人画壇名勝図の歴史的位置を明らかにしていきたい。⑵拙稿「文徴明の石湖図─《石湖花游曲詩画巻》(上海博物館蔵)をめぐって─」九州藝術学会誌『デアルテ』25号、2009年3月、25~26頁⑶両作品の絵画表現と詳細な制作背景については、以下を参照いただきたい。前掲論文【注⑵】。拙稿「文徴明《石湖清勝図巻》(嘉靖11年【1532】、上海博物館蔵)について─呉派文人画における名勝図の一様相」『美術史』第176冊、美術史学会、2014月3月⑷薛永年「陸治銭穀与後期呉派紀游図」故宮博物院編『呉門画派研究』紫禁城出版社、1993年⑸明代後期の紀遊趣味は、文人の旅游記録である游記の、嘉靖年間(1522~66)以降の増加、万暦年間(1573~1620)以降の大量生産から窺える。またこの頃に王履《華山図冊》(洪武16年【1383】、北京故宮博物院・上海博物館蔵)が再評価されたことで、画冊形式が流行したとみられる。(植松瑞希「明代の旅游文化と実景山水図─張宏筆「越中真景図冊」を中心に─」『鹿島美術研究』年報第31号別冊公益財団法人鹿島美術財団、2014年11月、310頁)⑹名勝図冊の各画題が独立したケースとして、劉原《霊巌積雪図》(万暦40年【1612】、台北故宮博物院蔵)、袁尚統《楓橋夜泊図》(順治14年【1657】、日本・個人蔵)などがある。独立形式と一連の画冊形式、どちらの成立がより早かったかについても今後考察の必要がある。⑺現存する最も早い「姑蘇十景」は、明の文伯仁(1502~75)による画冊(台北故宮博物院蔵)だが、その中で石湖は「石湖秋泛」という画題のもと、秋の晴天の景として絵画化されている。「石湖煙雨」の画題が画冊形式の定番となる以前、《石湖清勝図巻》の天候イメージを受け継いだ石湖図の例とみることもできよう。⑻《石湖花游曲詩画巻》詩巻の文徴明識語によれば、本作は莫震撰・莫旦増補『石湖志』(増補版は16世紀初頭刊)において、「石湖花游曲詩」が跡を汚すとみなされ収録されなかったことの落胆から制作したという。(識語「鐵崖諸公花游倡和、亦石湖一時勝事也。比歳、莫氏修石湖志。― 230 ―― 230 ―
元のページ ../index.html#240