鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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を打ち鳴らす者、鼻をかみながら泣く者、右のこぶしを胸に当て左手で釈迦に触れる者、右袖で口許を隠し左手を膝に置く者、合掌する者、釈迦の足に触れ接足礼拝する者が描かれる。このうち右端の仏弟子は、涅槃の場に遅れて到着し、釈迦が棺の中から足を出して接足礼拝が叶ったという迦葉を表していると考えられる。釈迦の下には一枚の大きな布が敷かれており、その中央が手前に垂れ下っている。宝台の前には香炉を載せた机が置かれている。香炉の前では、二人の胡人が胡旋舞を舞い、その周囲には四人の僧が合掌する。画面の下方には、五色の涌雲が描かれる。宝台の奥には二本の樹木が表される。通常の涅槃図には沙羅双樹が描かれるが、本図では『観無量寿経』に説かれる極楽浄土の七層の宝樹の形に表され、美しい宝石で飾られている。木の背後にはそれぞれ涌雲が描かれる。画面上方の中央には、釈迦の母である摩耶夫人が、釈迦の入滅を知り、二人の侍女とともに降り立つところが描かれる。一見して、わが国の涅槃図とは異なる図様が目につくため、本図の図様を積極的に解明する研究は少なく、井手誠之輔氏のモノグラフによる見解が現在まで踏襲されている。井手氏は、陸信忠の工房の立地から、寧波の市街地に位置する有力な天台寺院であった延慶寺の仏画を多く制作していた可能性を指摘され、本図も延慶寺の周辺で用いられたと推測された。また延慶寺では、北宋の四明知礼の創始した念仏集会の会合が、涅槃会の日に行われており、そこに集う庶民を中心とする参集が、涅槃会の日に掛けられていた本図を目にしたことを想定され、本図の特異な表現は、念仏結社の会員であった市井の人々の死生観に根差したものと解釈された(注3)。井手氏の解釈によれば、宝台に乗りあがる仏弟子は、「うす笑いともとれるような諧謔味を帯びた」表情で描かれ、七層の宝樹は、釈迦が入滅したのではなく極楽浄土に往生したのではないかという庶民の死生観を反映した表現であり、本図を明時代以降の「祝祭的雰囲気をたたえる涅槃表現の嚆矢」と位置付けられている。さらに、胡旋舞を舞う胡人については、西域風人物と、涅槃図に描かれることが多い執金剛神のダブルイメージとされる。すなわち、釈迦の入滅後、クシナガラの住人である末羅族により七日間の供養が行われたという仏伝に基づいて西域風人物の舞踊が執金剛神とのダブルイメージで描かれ、宝台の前で合掌する四人の僧からも、涅槃後の供養の儀式が進行する様子を表しているとされる。しかし、本図と同時代の涅槃図に同じ図様の作品は見いだせず、明代以降の涅槃図との影響関係も明確ではない。本稿では、同時代やそれ以前の作例との比較と『涅槃経後分』の再確認によって、本図の図像源泉を検討し、本図の表現の意図を探りたい。― 236 ―― 236 ―

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