機感荼毘品には、実際に涅槃後の釈迦を兜羅綿と白氈で包み、香花をもって供養したことが記される(注6)。本図の布は、ものを包むような向きに敷かれており、釈迦を包んだ場合に表になる面(本図の場合裏側)が白く表現されていることから、入滅後の釈迦を包んだ白氈を表しているのではないかと考えられる。ここで、改めて北京・首都博物館の石棺と比較しよう〔図5~8〕。この石棺は、四面に涅槃にまつわる事跡が浮彫されており、今は失われた蓋の部分に乾統五年(1105)の銘があったと報告されている(注7)。横幅の広い面には涅槃と護送舎利、幅の狭い面には再生説法と白氈纏身がそれぞれ表される。白氈纏身の画面には〔図7〕、「帝釈梵王、六欲諸天、各贈白氈、纏裹釈尊」の文字が刻まれており、石棺の図様はまさに釈迦が布に包まれた後の様子を示すが、仏弟子の一人が右手を胸に当て左手を伸ばして釈迦に触れる点や、宝台の両脇で仏弟子が直立する点が本図と一致する。なお、北宋・乾徳元年(963)制作の河北省・邯鄲の水浴寺磨崖造像にも、涅槃、再生説法、白氈纏身の場面が表され(注8)、涅槃前後の事跡の場面選択の多様性が窺える。こうした作例により、本図の制作背景に、さまざまな先行作品や伝統的図像が参照された可能性が指摘できる。次に、胡旋舞を舞う胡人について考察する。渡辺氏は、具体的な比較作例は挙げずに、遠く時代と空間を隔てた敦煌に先例があると述べる。井手氏は、涅槃経典に説かれる、クシナガラの住人である末羅族による七日供養の伎楽と、涅槃図に一対で描かれる執金剛神とのダブルイメージを示す図像とされ、類例として、北宋・至道元年(995)制作の河北省定県・浄衆院舎利塔壁画〔図3〕、京都・金輪寺本仏涅槃図、明・成化十九年(1483)の山西省大原・崇善寺本「世尊示踪図像」第79図を挙げる。ただし、七日供養の記述は『涅槃経後分』には説かれず、しばしば執金剛神とは別に踊る胡人の表現が見出せるため、ダブルイメージの可能性もあるものの、踊る人物の図像がすでに慣習となっていた可能性も考えられる。さらにいえば、舞踊する人物とともに、楽器を演奏する人物が表される作例もある。2009年に発見された陝西省・渭南の盤楽村218号墓の墓室壁画〔図9〕には北宋の涅槃図があり、その右端には拍板を叩く人物、踊る人物、横笛を吹く人物の三名が描かれる(注9)。このような人物は舎利石棺の側面にも見られ、山東省博物館所蔵の北宋・皇祐三年(1051)の舎利石棺には横笛を吹く人物と舞踊する人物が表され〔図10〕、甘粛省博物館所蔵の霊台舎利石棺には、涅槃場面の反対側に、奏楽や舞踊を伴い釈迦を護送する葬送儀礼の図が表される〔図11〕。これらの作例は、五代から遼、北宋の墓室壁画に見られる散楽図を想起させ、この時代に舞踊や奏楽が死者への供養として馴染みの行為であったこ― 238 ―― 238 ―
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