とを思わせる。なお、やや遡る例では、寧夏回族自治区の唐代のソグド人墓門闕にも、胡旋舞の表現が見られる。これらの図像の起源や美術史上の位置づけについては慎重な検討が必要であるが、本図の胡旋舞の前提に、死者供養のために胡旋舞や散楽図を表す伝統や流行が存在したことは留意される。執金剛神と末羅族のダブルイメージについては、朝陽北塔の木胎銀棺に示唆的な図様が見出せる〔図4〕。詳細に観察すると、釈迦の枕側に長い袖を翻して踊る二人の人物が見られ、うち一人は足元に金剛杵のようなものを宝台に立てかけているように見える。元来、中央アジアにおける2~3世紀の涅槃像の執金剛神は、腕を振り上げ哀しむ姿に表されることがあり、筆者は一つの可能性として、腕を振り上げ哀しむ執金剛神が、中国の葬送文化の中で舞踊する姿に変容した可能性を考えている。本図の胡人の服装や他の作例の西域風人物の表現を比較し、その意味するところの考察を続けたい。最後に、沙羅双樹の位置に表された七層の宝樹について検討する。宝樹の表現は印象的で、幹には宝石が苔のように取り付き、枝には瓔珞のような垂飾が表される。井手氏は、寧波の市街地に位置し、有数の天台寺院であった延慶寺の念仏結社に所属していた当時の庶民の存在に注目され、釈迦が入滅したのではなく実は阿弥陀の浄土に生まれ変わったのではないかという庶民の死生観に根差した問いかけを表現していると解釈された。ここで注目したいのは、本図の他に、沙羅双樹ではなく宝相華を表す涅槃図が存在することである。愛知・中之坊寺本「仏涅槃図」〔図12〕は、八本の樹幹の上方を宝相華で埋め尽くし、山東省・州の興隆塔地宮出土の鎏金銀棺の側面に表された仏涅槃図〔図13〕にも、画面の上方に宝相華風の植物文様が見出せる。一方、『涅槃経後分』には、釈迦の涅槃を供養するために、しばしば天花が降る、あるいは天花や香花によって釈迦を供養するという記述がみられる。例えば、応尽還源品には、釈迦の入滅により大地に異変が起こるさまが記され、大地のすべての植物は花果・枝葉を落とし、無数の天香・天花が降り、三千大千世界に遍満し、如来を供養したと説かれる(注10)。また、機感荼毘品においては、釈迦の金棺が虚空に上昇するさまを記す箇所に、帝釈天及び諸天衆が釈迦の宝台の四面を荘厳し、七宝の瓔珞を虚空中に垂れ、釈迦の七宝の棺を覆ったこと、無数の香花・幢幡・瓔珞・音楽が空中供養して第六天・色界の諸天に至り、一切天人は釈迦の棺の前路において、遍く七宝の真珠・香花・瓔珞などを散じ、雲のように地面や虚空に遍満したことが説かれる(注11)。さらに、涅槃に遅れて到着した迦葉が、クシナガラに入る際、一人のバラモン僧が天花を手にやってき― 239 ―― 239 ―
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