このように鎌倉時代に入ると冥府彫像の件数が増加するが、推定作も含めると構成(B)が最も多くを占めるのは〔表3〕のとおりである。さらに、構成(B)は安置場所の閻魔堂と対になっていることを前提とした場合、その件数はさらに増加するものと思われる。構成(B)〈以下:五尊形式の冥府彫像とする〉の確認件数が現存作例・記録とも他に比べ多く確認できる事実を踏まえれば、中野氏の鎌倉時代に五尊形式の冥府彫像が多かったという指摘は正しいと結論づけられる。では、なぜ五尊形式の冥府彫像が流行したのか、その理由を考察してみたい。天皇家所縁の冥府彫像初期の冥府彫像を通覧していくと、天皇家所縁の造営が散見することに気づかされる。例えば、鳥羽離宮に造営された鳥羽炎魔天堂は鳥羽天皇の生前には延命祈願を、没後は追善供養が営まれたことが指摘されている(注21)。また、醍醐寺閻魔堂は後白河天皇第六皇女の宣陽門院が発願者として関わっており、承久の乱との関わりも指摘されている(注22)。この他にも天皇家所縁の可能性を有する閻魔堂として、記録のみで現存しないが、奈良・長谷寺の閻魔堂があげられる。長谷寺の閻魔堂の存在は弘安3年(1280)の長谷寺再興時の史料である『弘安三年長谷寺建立秘記』によって確認できるが(注23)、この閻魔堂が13世紀前半には存在していた可能性を示す史料として『長谷寺験記』上・巻末付属「長谷寺律宗安養院過去帳」がある(注24)。同過去帳から長谷寺の閻魔堂は承久元年(1219)の炎上後に復興の過程で造営されたとし、嘉禄2年(1226)の長谷寺本堂落慶供養を造営の上限とする説がある(注25)。このように長谷寺安養院には閻魔堂が付属していた様子がうかがえるが、ここで注目したいのは同過去帳によると安養院は白河天皇の本願により造営され、鳥羽天皇も長谷御幸の際に同堂を利用していたと記す点である。閻魔堂が造営されたと思われる期間(1219~26)は白河・鳥羽天皇が崩御して以降のことなので、両天皇が長谷寺閻魔堂の造営に関わったとまでは言えないものの、天皇が長谷御幸の際に利用する施設であったとは読み取れるのではないだろうか。長谷寺閻魔堂の当初像は現存していないが、現在長谷寺には弘安3年の再興時のものと思われる鎌倉時代の閻魔王像頭部と、天文13~16年(1544~47)にかけて宿院仏師が制作した閻魔王像を除く泰山府君坐像、五道大神坐像、司命・司録坐像が伝来しており(注26)、長谷寺閻魔堂も五尊形式の冥府彫像が安置されていた可能性が高い。やや時代が下り、天皇家周辺での造像の可能が考えられる作例として富山・芦峅寺― 15 ―― 15 ―
元のページ ../index.html#25