鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴ 陸信忠やその工房については、以下を参照した。 ①田中一松「陸信忠筆十王像」『國華』878号、1965年。 ②梶谷亮治「陸信忠筆十王図」『國華』1020号、1972年。 ③海老根聰郎『元代道釈人物画』東京国立博物館、1977年。 ④海老根聰郎「寧波仏画の故郷」『國華』1097号、1986年。⑵ 本図については、以下を参照した。 ①海老根聰郎『元代道釈人物画』東京国立博物館、1977年。 ② 渡辺明義「中国の涅槃図」高野山文化財保存会編『国宝応徳仏涅槃図の研究と保存』東京美 ③井手誠之輔「陸信忠考─涅槃表現の変容─(上)(下)」『美術研究』354・355、1992~93年。 ④中島博「(解説)仏涅槃図」展覧会図録『東アジアの仏たち』奈良国立博物館、1996年。 ⑤井手誠之輔『日本の美術418 日本の宋元仏画』至文堂、2001年。 ⑥梅沢恵「(解説)仏涅槃図」展覧会図録『宋元仏画』神奈川県立歴史博物館、2007年。 ⑦北澤菜月「(解説)仏涅槃図」展覧会図録『聖地寧波』奈良国立博物館、2009年。 ⑧ 井手誠之輔「(解説)涅槃図」愛知県史編纂委員会『愛知県史別編 文化財2:絵画』、2011たので、迦葉が問うと、釈迦の荼毘所でこの天花を得た、と答えたことも記される(注12)。したがって、沙羅双樹ではなく宝相華を描く涅槃図は、『涅槃経後分』の天花や香花を表している可能性がある。本図の沙羅双樹が浄土に生えるとされる七層の宝樹の形で表されるのは、涅槃の場に現れた天上の花の一種の表現と考えられるのではないだろうか(注13)。おわりに本稿では、本図の特徴的な表現を同時代以前の作品と比較してきた。これまでは、研究の範囲が本図の制作地である南宋時代の江南地域に限られていたが、中原や北方の作品と比較することにより、本図が伝統的な図像の上に成り立っていること、『涅槃経後分』の中にも図像解釈の鍵となる記述が見出せることが明らかとなった。本図における中原や北方地域に対する意識は、当時の南宋宮廷絵画のあり方に通じる点で興味深い。近年、南宋時代の涅槃図の典拠や思想背景に関する研究が進められている(注14)。今後、当時の涅槃図の懸用法や涅槃会の儀軌を踏まえ、場面選択や構図の工夫を考察し、南宋時代の涅槃図作品全体の中での位置づけを行い、別稿に期したい。術、1983年。年。 ⑨森實久美子「(解説)仏涅槃図」トピック展示図録『大涅槃展』九州国立博物館、2015年。⑶ 前掲注⑵の③、井手氏論文。― 240 ―― 240 ―

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