⑷両氏とも、北宋の作とされる陝西省黄陵千仏寺石窟の涅槃浮彫を類例に挙げる。⑸前掲注⑵の多くの先行研究では、井手氏の解釈が採用されている。②の渡辺氏は「悲嘆の表情」、⑥の梅沢氏は「悲しみの所作を表す一方、(中略)驚きと戸惑いを表情豊かに表しており涅槃の場には不相応とも思われるほど生き生きと描かれている」とする。⑹『涅槃経後分』巻上 「第一 遺教品」 …転輪聖王命終之後、経停七日、乃入金棺。既入棺已、即以微妙香油注満棺中、閉棺令密。復経七日、従棺中出、以諸香水灌洗、沐浴;既灌洗已、焼衆名香而以供養;以兜羅綿遍体儭身、然後即以無価上妙白氈千張、次第相重、遍纏王身。既已纏訖、以衆香油満金棺中、聖王之身爾乃入棺。密閉棺已、載以香木、七宝車上、其車四面垂諸瓔珞。一切宝絞、荘厳其車、無数花幡、七宝幢蓋、一切妙香、一切天楽、囲繞供養。爾乃純以衆妙香木表裏文飾、微妙香油茶毘転輪聖王之身。茶毘已訖、収取舍利、於都城内四衢道中起七宝塔、塔開四門、安置舍利、一切世間所共瞻仰。… 『涅槃経後分』巻下 「第三 機感荼毘品」 …是時大衆咸哀喑咽。即持無數妙兜羅綿。從頭至足纒裹如來金剛色身。既纒身已。復以上妙無価白氈千張。於兜羅上次第相重纒如来身。纒身已訖是時大衆重大悲哀号哭悶絶。復持香花幡蓋宝幢音楽哽咽供養。…⑺李静傑「中原北方遼金時期涅槃図像考察」故宮博物院『院刊』、2008年、第3期。⑻邯鄲市文物保管所「邯鄲鼓山水浴寺石窟調査報告」『文物』1987年、第4期。⑼康保成・孫乗君「陝西鼓城宋墓壁画考釈」『文芸研究』2009年、第11号。⑽『涅槃経後分』巻上 「第二 応尽還源品」 …爾時大地一切卉木。薬草諸樹花果枝葉。悉皆摧折碎落無遺。…(中略)…雨無数百千種種上妙天香天花。遍満三千大千世界高須弥供養如来。…⑾『涅槃経後分』巻下 「第三 機感荼毘品」 …爾時、帝釋及諸天衆即持七宝大蓋、四柱宝台、四面荘厳七宝瓔珞、垂虚空中、覆仏聖棺、無数香花、幢幡、瓔珞、音楽、微妙雜綵、空中供養;至第六天色界諸天、倍前帝釈覆仏聖棺及申供養。地及虚空悉皆遍満、哀泣流涙、供養如来七宝霊棺、…⑿『涅槃経後分』巻下 「第三 機感荼毘品」 …至拘尸城城東路首。迦葉。遇見一婆羅門執一天花隨路而来。迦葉問言。仁者何來。答曰。仏般涅槃我於荼毘所来。復問。此是何花。答言。於荼毘所得此天花。…⒀井手氏の推察されるように、本図が延慶寺周辺で用いられていた可能性は高いと思われる。天台浄土教の一大拠点であった延慶寺には、浄土の観想行を行う十六観堂が備えられており、宋画の模本と考えられる観経十六観変相図では宝相華を背景に七層の宝樹が描かれることも、両者がともに浄土の植物であり観想の対象であったことを示唆している。北澤氏は、前掲注⑵の⑦解説において、「(その場が)涅槃により浄土化するような表現」、「涅槃供養と阿弥陀信仰の並存は、日本では源信に認められる」と述べており、宝樹の表された意図については今後の課題としたい。⒁近年、涅槃図に関する論考が盛んに発表されている。①井手誠之輔「叡福寺蔵涅槃変相図」『國華』1263号、2001年。②古谷優子「石山寺蔵涅槃図考」『美術史』161冊、2006年。③李静傑「中原北方遼金時期涅槃図像考察」故宮博物院『院刊』2008年、第3期。④富岡優子「京都・万寿寺所蔵涅槃変相図試論」『デアルテ』30号、2014年。― 241 ―― 241 ―
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