「生活型」の供養絵額られる。さらに室町から桃山時代にかけて絵馬堂が登場し、不特定多数の人々が自由に作品を掲額することが可能となった。こうして絵馬が本来有する宗教性は次第に後退し、美術品としての展示的価値を競う作例が多数出現した。18世紀後半の宝暦・天明期、絵画・芸能・文学などの諸分野がそれぞれに独自の発達を遂げ、19世紀前半の文化・文政期には、江戸を中心に豊かな町人文化が栄えた。地方においても、商工業者を中心に華麗な大絵馬の奉納を見るに至った。化政期は絵馬奉納の最盛期で、民間信仰の広まりとともに小絵馬の図柄も多様化し、全国で奉納されるようになった。小絵馬には個人の願いが投影されており、神仏への直接的な働きかけが主となるためしばしば宗教性を帯びる場合が多いのに対し、大絵馬は個人或いは集団の意志を内外に明示し、顕彰する意図が強い。また、絵師の力量や知名度、装飾の美しさなどに重点が置かれる傾向がある。絵馬とは、願主の率直な願望、欲望が表出された民俗的な奉納物であり、図像学的な分析が可能となり得る画像である、と考えたい。次に、大絵馬と小絵馬の特徴を踏まえつつ、供養絵額が絵馬であるのかどうか考察する。供養絵額は、2001年に遠野市立博物館で開催された「供養絵額―残された家族の願い」展において初めて大きく取り上げられた。最も古いとされる〔図1〕は弘化2年(1845)に奉納されており、画面中央の女児を供養する奉納趣意が書かれている〔表1〕。死者にまつわる情報を明確に記す点で、本図は供養絵額の原型を成すと言えるが、奉納年代が最も古い作例は、より時期を遡る可能性がある(注3)。今日、岩手県内に確認される431点の内、223点が遠野市内に現存しており、さらにこの内凡そ4分の1に相当する53点を外川仕候(1811-1892)という人物が手がけている。遠野南部藩の武士であったが、絵を能くしたことでも知られ、『遠野物語拾遺』の194話にも紹介されている。また、仕候がいつから供養絵額を描き始めたのか明らかではないが、1870~90年代に旺盛な制作活動を展開しており、遠野市内の寺院には彼の手による供養絵額が多数残されている。作品には紅穀や舶来の群青が多用されており、今日でもその色合いはほとんど褪せることなく、鮮やかな色彩を保っている。供養絵額を奉納したのは、主に中流階級以上の商人たちであった。自らの家の屋号や家業に勤しむ様子を描いたり、額縁に派手な装飾や家紋を付すものも多い。そこには、一族を供養する思いと、家の格や富を誇示し、末代まで伝えて行こうとする明確― 247 ―― 247 ―
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