な意思が込められている。当然、画面は大型化し、情景描写も細密化する。その意味で、供養絵額は遺影でありながら、一種の広告的な役割も担っていた。〔図2〕は外川仕候が78歳の時の作例である。座敷で成人女性2人が食べ物を取り分け、男児が成人男性に酒を注いでいる。画面右に見える掛軸に4人の没年月日、戒名が記されており、画面の人物たちが全員亡くなっていることが分かる〔表1〕。〔図1、2〕のように死者が座敷や居間で寛ぐ図様は、遠野市内の寺院の絵額に集中して見られ、遠野市立博物館はこれを「生活型」と定義する(注4)。座敷は来客をもてなす社交の場であり、家の主は客の身分や格式、季節に合わせて書画骨董を取り揃え、屏風や襖絵、掛軸で空間を演出した。たとえば、画面左の襖絵には牡丹と番の鶏が描かれている。他に鴛鴦や兎が描き込まれることが多く、これらは富貴、夫婦和合、子孫繁栄を象徴することから、恐らくは吉祥紋様として意識的に描かれたのだろう。また、こうしたハレの場にあっては、可能な限り最上の生活文化の表現として、普段の日常とは明確に異なる行動様式や意匠が好まれた。画面中央の柱には西洋式の掛時計が見えるが、我が国で太陽暦に則して一日を24時間で表すようになったのは、1873年に採用された定時法以後のことである。こうした当時最先端であったであろう物品を敢えて描き入れることで、文化的生活を営んでいる様を強調しようとしたのかもしれない。そしてまた、来世にまで時間という概念を持ち込んでいる点が注目される。ここには、死者は来世で現世と変わらぬ生活を営んでおり、生から死、死から生の次元へと容易に生命が往還するという死生観が表れている。供養絵額においては、描かれるのがたとえ一人の場合であっても、必ず食膳が描かれる。それはお供えであり、永久に飢えることがない死者像を担保しようとしたためだろう。現在ほど食が豊富ではなかった時代、飲食は最大の愛情表現の一つであった。そしてまた、一族との共同飲食を通じて、家族の連帯意識を強めるといった民俗的な意識が働いていた、とも考えられる。このような肉親の供養を目的とする供養絵馬の奉納は、すでに中世から近畿地方を中心に行われていたが、奉納者と寺院の関係に目を配ると、参詣者と詣り寺・祈願寺という関係が主であって、檀家と菩提寺すなわち寺壇関係はほとんど見られないという(注5)。それは恐らく、「生活型」の供養絵額が死者とのコミュニケーションを表現することに重心を置いているからであろう。豪華な食卓に囲まれ、酒を酌み交わしながら談笑し、思い思いに寛ぐ死者たちは、画面の中でいつまでも幸福であり続ける。― 248 ―― 248 ―
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