鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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像が注目される。芦峅寺には鎌倉時代の制作と思われる閻魔王坐像、泰山王坐像、伝初江王坐像、司命坐像が伝わっており、当初は五尊形式であったと考えられる(注27)。芦峅寺のある立山の地は、「後白河院庁下文案」(『新熊野神社文書』)に新熊野神社領として記載された「立山外宮」に該当することから、後白河天皇周辺の国家鎮護、境界守護として閻魔堂が整備されたとする指摘がなされている(注28)。一方で必ずしも全ての冥府彫像が天皇家との接点を説明できるわけではない。例えば建長3年(1251)造像の神奈川・円応寺初江王坐像は、造像当初は醍醐寺閻魔堂に比類される鎌倉閻魔堂に安置された五尊形式の一体である可能性が杉崎氏によって示唆されている(注29)。そこから筆者が、その説を裏付ける形で論じ、造像主体として北条氏や安達氏ら鎌倉幕府関係者が関わっていた可能性を指摘した(注30)。天皇家所縁の造像が多いことを前提とした場合、鎌倉において醍醐寺閻魔堂に比類されるほどの閻魔堂を造営できた背景には、承久の乱により京と鎌倉の権力構造に変化が生じたためとは考えられないだろうか。以上、天皇家所縁の作例をあげてきたが、そのうちの多数は冥府彫像の造像史において初期の事例(院政期から承久の乱頃)に集中している点は特筆される(注31)。このことから、鎌倉時代に五尊形式の冥府彫像が流行した理由のひとつとして、鳥羽炎魔天堂をはじめとする天皇家所縁の冥府彫像および閻魔堂が影響力を有していたのではないかと思われる。今後の展望本稿では冥府彫像の尊像構成を整理し、鎌倉時代の冥府彫像には五尊形式の構成が多く見られる点を確認した。その理由として、初期の冥府彫像には天皇家周辺での造像が多いことを指摘し、その影響力を想定した。以上の視点から、改めて天皇家との接点を指摘できる可能性を有した冥府彫像に触れ、本稿のまとめに変えたいと思う。まず取り上げたいのが、山形県・平塩熊野神社の伝・十王像二躯である。平塩熊野神社は本山慈恩寺に近い立地が注目される。本山慈恩寺は天仁元年(1108)に、鳥羽天皇の勅願により再興したことが後世の縁起に見られ(注32)、その文化圏に平塩熊野神社像が伝来しているのは興味深い。先行研究において平塩熊野神社像の制作年代を12世紀後半とする点は大まかで一致しているが、この像が伝承のとおり冥府彫像なのか、あるいは神像なのかは議論がある(注33)。仮にこの像が冥府彫像とした場合、この像は醍醐寺閻魔堂以前の作例になり、現存しない鳥羽炎魔天堂安置像の像容を伝えている可能性が考えられる点で、重要な作例と思われる(注34)。― 16 ―― 16 ―

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