鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
260/507

死絵とは、主に18世紀半ばから20世紀初頭にかけて、著名な人物が死去した際にその似顔絵を描き、没年月日や戒名、菩提寺、辞世の句や追善の歌句を添え、売り出された浮世絵の一種である。高名な戯作者や浮世絵師が描かれることもあったが、歌舞伎役者の場合が圧倒的に多かった。特に8代目市川団十郎(1823~1854)の死に際しては、何百種とも言われる図様の死絵が発行されており、その人気のほどが窺える。死絵における役者は、舞台で芝居を演じるなど、基本的には生前を想わせる姿で描かれる。一方で、たとえば樒や数珠を持った水裃姿〔図5〕という具合に、明らかに死後に時間軸を置いた表現がなされる場合もあり、死の事実を逸早く巷間に知らしめる広告としても機能していた。供養絵額との共通点を整理すると、(一)没年月日や戒名など、死者にまつわる情報を記載する。(二)死者を追悼するための遺影である。(三)広告・宣伝的役割を担う(ことがある)。以上の三点にまとめられる。死絵はその誕生から終焉まで一貫して死を題材にした商品であり、この点が供養絵額とは決定的に異なる。だがそればかりでなく、近世半ばにおける民衆意識の高まりを背景に、死をも大いなる笑いの下に肯定する表現として生まれた死絵の遊びの精神が、供養絵額の発展に大いに影響した可能性も十分に考慮しなければならないだろう。外川仕候は、1854年10月に遠野南部家当主の江戸入りに随行しているが、ちょうど8代目団十郎の死絵が爆発的に流行していた時期と重なる。すでに〔図1〕、(注6)で触れたように、遠野では人形や絵馬といったモノを供養し、死者を偲ぶ心性が培われて来た。供養絵額の奉納は、こうした文化の土壌があり、外川仕候が死絵に感化されて帰藩の後、盛んに描いたことで普及して行ったのではないだろうか。明治期以降、役者の死は新聞の訃報欄に似顔絵や写真とともに掲載されるようになり、初代中村鴈治郎(1860~1935)の死を最後に、死絵は発行されなくなった。写真は、被写体の相貌を表象する上で絵画を圧倒し、肖像の主流となって行く。死者の肖像②近代─萬鐵五郎周辺の画家たち供養絵額もまた写真の普及に圧され、明治から大正期にかけて、次第に鉛筆やコンテを用いた肖像画が描かれるようになる。写真家の内藤正敏は1970年代、遠野を訪れた際に立ち寄った先々の寺院で、こうした死者の肖像画が壁一面にかけられているのを見て衝撃を受けたという(注7)。これらは遺族に返却されたり、寺院の改修を機に何らかの形で処分され数を減らしたが、一部の寺院には現在もこのような肖像画が残されている。― 250 ―― 250 ―

元のページ  ../index.html#260

このブックを見る