こうした状況の下、比較的多くの作例が知られる藤根與治郎(1903~1959)と、その弟に当たる藤原八弥(1914~1998)の画業を紹介する展覧絵が2015年、萬鉄五郎記念美術館で開催された。八弥は、教師から転じて画家となり、安井曾太郎や石井伯亭らが設立した一水会に所属し、主に北上の民俗芸能である鬼剣舞や鹿踊りを題材に描いた。また、萬が日本近代美術史に果たした役割の重要性を認め、美術館の開設に奔走した人物でもあった。一方、與治郎は塗師を生業としながら、独学で絵を学んだ。本格的に画家を志すようになったのは、萬の遺作展に影響されたからだという。花巻、遠野で死者の肖像画を描き、肖像画会岩手県支部長も務めた(注8)。死者の肖像画は1924年に描かれた少女の作例〔図6、表1〕が最も古く、新しいのは1956年頃に描かれた男性のもので、生涯に亘り描き続けた(注9)。與治郎の子孫によれば、その画才を聞きつけた者たちから、亡くなった親族の遺影を描いて欲しいという注文が度々来るようになった。すると、まず彼は死者の家が代々使用して来た家紋が記された紋帳と、死者の肖像写真を借り受け、顔の部分を丸で囲み、それをルーペで拡大して模写した。そうして顔の部分を描き切ると、次に紋帳を参考に紋付羽織など正装した姿で胴体を描き、肖像画を完成させた。そして、さらにそれとそっくり同じものをもう一枚描き、死者の菩提寺と遺族、それぞれの元に引き渡したという。今回の調査で、與治郎以外にも、死者の肖像画を手がけた画家が複数存在することが判明した。主に大正から昭和後期にかけて制作を行っている(注10)。それ以前にも遺影として用いるための肖像画の需要はあったようで、たとえば「萬長次郎像」〔図7〕は、萬の祖父が亡くなった折に制作が依頼された。さらに、萬に水墨画を指導した菊池素香(1852~1935)が手がけたとされる供養絵額の下絵が、萬鉄五郎記念美術館に複数保管されていることが明らかになった。これらの資料については今後、引き続き調査を行いたい(注11)。おわりに供養絵額は遠野、花巻市域でそれぞれ「生活型」「来迎型」として発展したが、来世を異質なものと遠ざけることなく、時には生者が死者と同一の画面に描かれ交歓するというような、現実と空想の入り混じる幻想的な情景を描く「生活型」の図様こそが、この習俗の本質を物語っているように思われる。遠野は、地形的には盆地で厳しい冬を越さねばならなかったが、花巻、郡山(紫波― 251 ―― 251 ―
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