鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴柳田國男「板絵沿革」『定本柳田國男集第27集』筑摩書房、1964年、348~349頁より引用。お町日詰)、大槌、釜石、気仙郡十八里(大船渡市盛町)、高田、岩谷堂(奥州市江刺区)へと七つの方向に街道が分岐しており、江戸時代には遠野南部氏の城下町、商人たちが行き交う交易地として発展した。こうした環境が、宗教的にも新しい信仰を抵抗なく受け入れ混在させる気風を育んだのかもしれない。供養絵額は、遠野のモザイク文化が生み出した習俗の一形態であると考える。その生と死の境目を容易に超えていく発想は、古来から飢饉や洪水に見舞われ、理不尽な死を強いられて来た東北の人々の想像力に培われて来たものと言えようか。筆者は、これらが絵画であることが、極めて重要であると考えている。すなわち絵画とはある瞬間を捉えて静止した画像だが、シャッターで時間を切断する写真とは異なり、そこには何らかの物語やエピソードが織り込まれる余地がある。供養絵額とは、まさにこうした絵画の有する物語性、永遠性が死者を追悼する記念物に昇華されたイメージであった。そしてまた、供養絵額は死絵と様式・機能面で共通する点が多く、明治期以後、油絵や絹絵の描法による死者の肖像画に変化するという点において、近世と近代における死者の肖像表現を架橋しており、さらに親族間の温かな心の触れ合いを表現している点で、日本美術史における家族の肖像画の先駆と捉えることができる。今後は、浮世絵の母子絵や子ども絵、近代以降の御真影や皇室一家の図像との比較検討を通じて、その美術史上の価値を明らかにして行きたい。よび同「豆手帖から」『雪国の春』、角川文庫、1956年を参照。⑵根子英郎「「供養絵額」について─岩手県中部地方の事例から」『東北民俗学研究』、第7号、119~131頁、2001年1月1日。山田慎也「近代における遺影の成立と死者表象─岩手県宮守村長泉寺の絵額・遺影奉納を通じて」『国立歴史民俗博物館研究報告』、132号、287~325頁、2006年3月。松崎憲三「絵馬に見る供養の諸相」『民具研究』、138号、14~26頁、2008年9月などの先行研究が提出されている。⑶遠野周辺の寺院には、死者の没年等を墨書した人形が多数奉納されている。「魂のゆくえ~描かれた死者たち~」展図録(遠野市立博物館、2014年)によれば、現存する中で最古の作例には、2人分の戒名と、その没年と思われる寛政12年(1800)、享和元年(1801)年と年号が記されている。筆者が調査した光岸寺(遠野市土淵町)には、明治から昭和期にかけて奉納された供養人形が多数保管されているが、かつてはより古い時期に制作された人形もあったという。⑷「供養絵額─残された家族の願い」展図録、遠野市立博物館、2001年、12頁。⑸坪井利剛「中・近世における供養絵馬」『日本歴史』、619号、1999年12月、68~70頁。⑹注⑴前掲書― 252 ―― 252 ―

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