⑺内藤正敏『遠野物語─内藤正敏写真集』春秋社、1983年。および同「死者の肖像画」『遠野物語の原風景』ちくま文庫、1994年、96頁。⑻「地方美術の系譜探る 花巻で「藤根與治郎 藤原八弥展」 郷土の風景画など90点」『岩手日報』、2016年1月7日、13面。⑼與治郎は「Y.F.」「Yojiro-Fu」「F-Yojiro」「YojiroFujine」「肖像畫師藤根與治郎」などと署名を使い分けている。萬鉄五郎記念美術館では、花巻市東和町にある浄光寺、興禅院、個人を対象に調査を行い、30点の作例を提示する。この他、筆者は同市町の成澤寺に1点、信泉寺に2点、常泉寺に2点、滝澤寺に4点、長泉寺・善勝寺(遠野市宮守町)にそれぞれ2点の計13点の作例を確認しており、合わせて43点となる。今後は北上、盛岡市にまで調査を拡大する方針である。⑽筆者の調査では、年代が古い順に並べると「K.S.」「K.Shimaguchi」(同一人物か)が1910年代に油絵を2点、「TK」が大正期に鉛筆画を6点、「肖山」が1920~40年代にかけて擦筆画を10点、「岩峰」が1960~70年代に8点擦筆画を描いている。最も新しいのは「岩峰」が昭和54年(1979)に描いた肖像画で、写真のような精細さが認められる。いずれの人物についても画歴は未詳であるが、これらの作品は、当時の最新の美術表現を学び、地元で制作活動に励んだ画家たちが多く存在したことを示している。⑾菊池素香は本名を文次郎、字を遠嗣といい、素香、桑園、雪翁と号している。明治17年(1884)、第2回内国絵画共進会に入選。25年(1892)には東京勧業博覧会で「三聖人之図」が入賞した。なお、師にあたる菊池黙堂(1835~1899)は外川仕候に南画を指導し、その死後には肖像画を描いている。また、供養絵額の制作者については、瀧澤寺に湯川玉僊(1812~?)の作品が1点、松涼寺(遠野市宮守町)、および桂林寺(花巻市石鳥谷町)に「守山」なる画家の作品がそれぞれ1点ずつ確認された。玉僊は、徳川幕府の御用絵師を務めた盛岡藩の絵師、湯川玉流の孫に当たり明治初期頃まで制作活動を続けた。「守山」の詳しい画歴は不明だが、江戸後期の歌川派に特徴的な面長の面容表現が認められる。― 253 ―― 253 ―
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