㉕ 藤田嗣治・1930年代の日本表象に関する研究─映画「現代日本」と壁画《秋田の行事》を中心に─研 究 者:秋田県立美術館(指定管理者 公益財団法人平野政吉美術財団)学芸課長 はじめに1920年代のパリで画風を確立し、一躍画壇の寵児となった藤田嗣治は、1931年10月にパリを離れ、中南米を巡遊し、1933年11月に帰国する。1930年代の藤田のまなざしは、遭遇した中南米の民族へと向けられ、帰国後は日本を拠点として東アジアの民族を捉える。このような藤田の人類学的な関心は、佐藤幸宏氏の論文「藤田嗣治の作品におけるモデルとしての民族と人種」に詳しい(注1)。帰国してから1年ほどは、藤田の日本滞在は短期間の予定であることが、たびたび新聞紙上に登場する。東アジア、東南アジアを巡り、取材を終えた後は、藤田はパリに戻る予定だった(注2)。しばらく日本に留まろうという意識が芽生えるのは、1935年春以降と考えられる。この頃から、藤田のまなざしは日本に向けられていく。同年10月、海外での上映を目的とした映画「現代日本」の監督として日本各地の撮影を開始し、翌1936年3月と6月には、映画の撮影中ではあったが、日本における壁画の方向性についての論考を発表する。同年7月には「秋田の全貌」を主題にした壁画を制作することを表明、翌1937年3月に完成させる。この壁画は一時期、国際的な展示空間、パリ万国博覧会への出品を意図していたと考えられる(注3)。藤田は日本に滞在しながらも、自らの活動を国際的な場において発表することに意識的であり、そのような目的を踏まえての日本表象であった。1931年の満州事変、1933年には日本の国際連盟脱退、1937年に日中戦争開戦という戦時下、国際的な活動には、国家イデオロギーの海外宣伝という要素が求められていく。映画「現代日本」は、海外への輸出を目的に製作されたにもかかわらず、結局、輸出中止となる。すべての表現活動が国家統制されていく日本において、藤田は日本をどのように表象したのか。本論では、映画「現代日本」と、この映画を企画した国際映画協会について、藤田撮影の写真群、および当時の新聞、雑誌等を調査し、藤田の1930年代の日本表象を検証する。― 257 ―― 257 ―原 田 久美子
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