鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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Ⅰ 藤田嗣治監督の映画映画「現代日本」とは、海外に日本の文化を紹介するために、国際映画協会が企画し東亜発声ニュース映画製作所が製作した映画である。藤田とプロの映画監督・鈴木重吉が監督を務め、1935年10月から撮影を開始し、1936年12月に試写会を迎えている。国際映画協会は当初、外務省の諮問機関として設置され、その1年後に外務省の外郭団体として独立する。財団法人として正式に設立されるのである。活動を開始した時点で、諮問機関であるにもかかわらず「設立」という言葉で報じられたことで、独立した組織と理解されたようだ。同協会の財団法人としての設立の経過についてはⅣ章で検証するが、映画の撮影がスタートした時点では、外務省が映画製作費用を予算化して藤田と鈴木に監督を依頼、国際映画協会が内容を企画、東亜発声ニュース映画製作所が製作という構図であった。この映画製作を主導したのは、外務省の柳澤健である。詩人としても活躍していた柳澤は、外交官としてパリに赴任中、藤田と出会い交流を深めた。藤田とは、パリで上演された「修善寺物語」の舞台美術を依頼したのが縁で親しくなったという(注4)。フランスからメキシコ、キューバへと赴任し、藤田より1年ほど早く1932年9月に帰国する。翌1933年5月には、外務省文化事業部に勤務、同年8月からは同課文化事業部第二課長を務めていた。1934年2月に、柳澤、帰国後約2ヶ月の藤田、作曲家・山田耕筰、映画会社P・C・Lの大橋氏らが、「生きた日本」を海外に送ろうと座談会を開き、公的な機関の関与は排除して映画製作に取りかかることが話し合われた。この段階では、民間の映画会社が製作する予定だったらしい(注5)。同月、柳澤は「藤田画伯と映画」と題した文章を紙上に発表している。藤田がメキシコで撮った16ミリフィルムは「1巻が首府にある闘牛場の風景、(略)クスコのお祭り。それと夜の花火の饗宴」が映し出され、それはアメリカ映画「地と砂」の闘牛場の場面よりすぐれていること、そして、「すばらしく芸術的な東京描写、ないしは日本描写の映画」を国際的な知名度がある藤田が製作すると、その映画は世界が市場になるだろうと述べている(注6)。これらの記事、寄稿からは、藤田に期待を寄せる柳澤の構想が映画製作の契機だったことがわかる。この後、同年4月には、設立されたばかりの国際文化振興会が藤田監督、三浦環主演の映画を計画している(注7)。国際文化振興会は、満州事変や国際連盟脱退により、日本が国際的に孤立するなか、日本への理解を促すため、対外文化交流事業を実施するための機関であった。同会の設立にも、柳澤が深く関わっていたのである。1935年9月、国際映画協会が設置される。この頃、外務省だけではなく、文部省、― 258 ―― 258 ―

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