逓信省を含む三省が「国際映画」の製作に進出することが決まった(注8)。国際映画協会の「設立」を『キネマ旬報』は次のように伝えている。「外務省ではいよいよ映画で国際的に呼びかけることになり、その第一着手として『国際映画協会』を設立、積極的に活動を開始することになった。新設された国際映画協会会長には曽我祐邦子爵、理事には黒田清伯、芦田均氏を始め著名な文芸家、思想家、音楽家を始め外交家、外交批評家を網羅(いわゆる映画人を除外)。当局の映画製作ないし映画的活動がお役人的仕事に流れようとするのをこの協会がたしなめるは勿論、民間各映画会社の対外映画の脚本作製、その製作、輸出に当たって諮問の一役を買って出ようというのもので、外務省では「映画先ず進みその国情生く」のモットーの下に昭和十一年度各種日本芸術紹介助成費二十万円のうち『海外向映画製作助成費』として十三万円の予算を計上している(注9)」。この記事から、諮問機関としての国際映画協会は、国際文化事業に関わってきた華族と文化人で構成された団体だったことがわかる。Ⅱ 映画「現代日本」の撮影地とシーン映画「現代日本」は10篇で構成されており、藤田が監督したのは「田園日本」、「子供日本」、「婦人日本」、「娯楽日本」、「都会日本」の5篇、鈴木が監督したのが「スポーツ日本」、「教育日本」、「産業日本」(2篇)、「国防日本」の5篇である(注10)。この10篇の構成は、1935年9月の外務省の国策映画進出を報じる記事に掲載されていることから、映画撮影の準備が進められた上で国際映画協会が設置されたことが窺える。クランクインは同年10月だった。映画「現代日本」は、日本の文化を海外に紹介する目的で製作された映画であるのにもかかわらず、最終的に輸出中止となる。10篇のうち、現在視聴できるのは、東京国立近代美術館フィルムセンターに収蔵されている4篇、藤田監督の「子供日本」篇、鈴木監督の「教育日本」篇、「産業日本」篇(2篇のうちの1篇)、「国防日本」篇で、その他は、所在不明である。このような事情から、この映画は長い間、その詳細が明らかにされてこなかった。藤田が監督した映画はどのような内容であったのだろう。編集者の保坂富士夫が映画について冷静な記述をしている。「一言にして言えばこの映画は、現代日本から西欧的な部分を取り除いた、昔から残っている現代日本風俗、それもあまり西欧に知られていない地方的なものを主として取り扱ったものである。北国の雪国の風俗とか、古風な西日本あたりの郷土舞踊、或いは中国地方の純日本式な娘風俗とか、田舎の子供の生活とかいった、新しい日本からは段々なくなりつつある懐かしい日本風俗、そ― 259 ―― 259 ―
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