注⑴① 中野玄三「閻魔天から閻魔王へ」(『仏教芸術』150号、毎日新聞社、1983年)、のちに同『日続いて取り上げるのが、京都・宝積寺像である。現在、宝積寺に安置されている五尊形式の冥府彫像は、元々は宝積寺近隣の西観音寺大門外の閻魔堂に安置されていたという(注35)。宝積寺の立地は交通の要衝に面する点が注目されてきたが、天皇との関わりに注目するならば、現在の島本町・水無瀬神宮の辺りに存在した水無瀬殿に注目すべきではないかと考える。水無瀬殿は後鳥羽天皇の時代に整備された離宮であり、後鳥羽天皇崩御後はその菩提が供養されたという(注36)。離宮に閻魔堂を造営するのは鳥羽炎魔天堂の前例もあり、宝積寺像も天皇所縁の造像である可能性が考えられる。以上の二点は、本研究を推進していく過程で得られた着想であり、今後、さらに検討していきたいと考える。② 中野玄三「大山崎の文化財(美術)」解説(大山崎町史篇纂委員会編『大山崎町史 本文編』、本仏教美術史研究』(思文閣出版、1984年)所収。②中野玄三「閻魔王及び十王の信仰とその美術」(『六道絵の研究』、淡交社、1989年)。⑵杉崎貴英「日本中世における冥府彫像とその場をめぐる序論的覚書(上・下)」 (京都造形芸術大学紀要『GENESIS』13・14号、2008・2009年)。⑶前注⑴②中野氏文献参照。⑷伊東史朗「醍醐寺炎魔天坐像と瞳嵌入」(『MUSEUM』474号、東京国立博物館、1990年)、のちに同『平安時代彫刻史の研究』(名古屋大学出版会、2000年)所収。⑸前注⑷伊東氏論文参照。伊東氏は『醍醐雑事記』(巻第1、上醍醐薬師堂の条)を取りあげ、薬師堂に釈迦三尊像、帝釈天像、吉祥天像と共に炎魔天像が安置されていることを指摘。同書は巻第9に治承3年(1179)の、巻第14および15には文治2年 (1186)の奥書がある。⑹『醍醐寺新要録 下』巻第13、下諸堂部 琰魔堂編 (法藏館、1991年)。⑺阿部美香「醍醐寺焰魔堂の図像学的考察」(真鍋俊照編著『仏教美術と歴史文化』所収、法藏館、2005年)。⑻前注⑹文献参照。⑼山本聡美「鳥羽炎魔天堂の場と造形」(加須屋誠編『図像解釈学 権力と他者』、仏教美術論集第4巻、竹林舎、2013年)。⑽前注⑼山本氏論文参照。⑾この点については前注⑼山本氏論文で既に指摘されている。⑿① 井上正「島本町の文化財(美術)」解説(島本町史編さん委員会編『島本町史 本文編』、島本町役場、1975年)。大山崎町役場、1983年)。⒀この点については、前注⑵杉崎氏論文では「地獄における裁きの場を、相応な規模をもって立体的に具現化した仮想空間であった」と指摘している。⒁奥健夫「地蔵菩薩像、泰山府君像(東大寺)」解説(水野敬三郎他編『日本彫刻史基礎資料集― 17 ―― 17 ―
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