達が望むのは、そうしたものを通じて、進歩的な近代国家の活動の中でいまだに脈々と続いている伝統的な日本の生活の人間的な温かさを、視聴者に伝えることである。我々の不変なる目的は、すべての人の心に訴え、すべての人に理解される映画をつくることである(注16)。藤田にとって慈しむべき日本の伝統は、1930年代の日本に同時代の構成要素として残存し、かつ息づいている伝統でなければならなかった。Ⅲ 1930年代の写真、映画、壁画「壁画の冬の風俗は国際映画にとり入れたものを描きたい。竿燈、七夕祭、梵天…みな見たものばかり、それに秋田の写真も数百枚とってあるし(注17)」という藤田の言葉が、壁画《秋田の行事》(1937年、公益財団法人平野政吉美術財団)〔図2〕の制作を前にしての新聞寄稿のなかにある。ライカの愛用者だった藤田が撮影した写真の多くは、フランス・エソンヌ県のヴィリエ=ル=バクルのアトリエに遺された。このパリ郊外の藤田の晩年のアトリエは、現在、ミュゼ・メゾン=アトリエ・フジタとなっており、そこには、概ね1930年から1940年の10年間をカバーする2000枚以上の写真のネガが保管されている(注18)。このたび、ミュゼ・メゾン=アトリエ・フジタの協力を得て、1930年代の写真を180枚、調査することができた(注19)。その写真群は、映画「現代日本」のシーンおよび撮影地とほぼ判断できるものが72枚、映画の撮影地の可能性もある日本の地方の写真が28枚、沖縄、中国、中南米で映した写真があわせて13枚あった。映画の関連としては、鹿児島の棒踊り、鹿児島伊敷村の娘、広島の日本髪の女性と長唄の稽古、東京の浅草の易者などの写真を確認した。33枚ほどは雪深い秋田の風景であった。秋田市の商人町を行き交う人々、角館町の映画撮影風景や、荷を積んだ橇を引く娘などが写されている。厳寒の町とそこに暮らす人々が、軽やかなスナップショットで記録されている。おそらくは秋田の雪の道を歩きながら、カメラをかざして写したものだろう。現在は消えてしまった秋田の民俗を捉えたすぐれた記録、ドキュメンタリーとなっている。秋田以外の地方では、レンガの運搬などの労働、祭を担う男性群像など、日常と祝祭のそれぞれにまなざしを向けている。写されているのは、藤田が壁画論に言うところの「実社会のレアル(注20)」そのものであった。映画「現代日本」の撮影のために、藤田が日本各地を巡ったのは1935年秋から1936― 261 ―― 261 ―
元のページ ../index.html#271