年春にかけての約半年間であった。そこで、藤田は、ファインダー越しに日本を再発見していく。壁画《秋田の行事》は、秋田市の資産家・平野政吉の美術館建設計画を受けて、1937年3月に制作された。映画「現代日本」の輸出中止が決められた直後のことである。「伝統的な日本の生活の人間的な温かさを」を映し出した映画「現代日本」は、秋田の四季折々の営みを描いた壁画《秋田の行事》の母胎といえるだろう。《秋田の行事》は、秋田の祝祭と日常、信仰、産業、そして歴史をも盛り込んだ壁画である。そのような日本の一地方の全体像を捉えるまなざしを、映画「現代日本」撮影の旅が培ったのである。Ⅳ 国際映画協会の設立映画「現代日本」撮影の終盤の1936年3月、藤田は「外国人がややもすれば、日本を武力一点張りの国のように誤解するので、現代日本のありのままの姿を海外に紹介しようという計画(注21)」と、映画製作の目的について撮影協力者に語っている。外務省の諮問機関として設置されてから1年が経過し、映画は完成間近となり、配給会社が東和商事に決まる。1936年9月には、国際映画協会が財団法人として設立の手続きを取る。外務省の外郭団体として独立したのである。設立趣意書には「我国文化の精華を海外に宣揚し我国運の伸展に貢献するを目的とするものなり」とあり、事業内容として「我国における国際映画製作、頒布及交換に関する指導ならびに援助の供与」、「国際映画に関する講演会、展覧会、試写会等の開催」、「海外映画関係者の日本研究に対する便宜供与」などが挙げられている。1年前に設置された諮問機関と異なるのは、理事に外務省の官僚の他、内務省、陸軍省、海軍省からも選任されていることである。内務省は、映画統制を実施、推進する担当局の警保局からの選任であった(注22)。このような役員の構成が、国際映画協会を方向づけて行くことになる。1930年代後半の日本では、国家的な見地から映画を規制しようという動きが本格化し、また、映画を国家統治に利用しようという観点が打ち出されていく。この頃から、1939年に制定をみる映画法制定への動きが、同局警務課の映画検閲担当であった館林三喜男を中心に推進されていく(注23)。この館林が、映画「現代日本」について紙上で批判を繰り返し、1937年4月には「蒙古の奥ででも見るような風景を現代の日本と海外に紹介されてはたまらんと外務省に懇談的に輸出を止めるよう通知しました(注24)」と明言している。映画「現代日本」の輸出中止に決定的な影響を与えたのは、映画統制を強めていた内務省だったのである。― 262 ―― 262 ―
元のページ ../index.html#272