鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴ 佐藤幸宏「藤田嗣治の作品におけるモデルとしての民族と人種」『レオナール・フジタとモデ⑵ 柳澤健「藤田画伯と映画(下)」『読売新聞』1934年2月17日朝刊4面。「グロな扮装で画筆─⑶ 拙論「藤田嗣治と万国博覧会」『壁画《秋田の行事》からのメッセージ 藤田嗣治の1930年代』⑷ 柳澤健「藤田嗣治画伯を語る」『印度洋の黄昏』、柳澤健遺稿集刊行委員会、1960年、119-121頁。⑸ 「藤田画伯ら映画報国」『東京朝日新聞』1934年2月3日朝刊3面。⑹ 柳澤健「藤田画伯と映画(上)」『読売新聞』1934年2月14日朝刊4面。⑺ 「環さんを主役に バタフライ映画化」『読売新聞』1934年4月20日朝刊7面。⑻ 「文部、外務、逓信の三省が国策映画の製作に進出」『キネマ旬報』551号、1935年9月1日、⑼ ⑽ ⑾ 「果たして国辱か 藤田嗣治氏の映画『風俗日本』」『アトリヱ』第12巻第5号、アトリヱ社、Ⅴ 1937年の藤田嗣治1937年1月に国際映画協会の理事会で映画「現代日本」の輸出中止が決定し、藤田はその約2ヶ月後に壁画《秋田の行事》を完成させた。この年の7月には日中戦争が開戦となる。同年11月発行の『文藝春秋』に、藤田は1934年に訪れた中国の旅行記「上京離去」を寄稿する。中国の民族への関心を向けた旅を振り返る随筆の最後に、「北平正陽門上には日の丸の国旗が高くたなびいて、初めて真実の太陽の恵を浴する事になった北平の市民は、幸福でなければならぬ」と記し、1937年の北平占領を象徴する門を登場させて文章を結んでいる(注25)。国際映画協会は同年10月、世界に日中戦争における日本の正義を知らせるための映画「支那事変と日本」の製作を打ち出し、対支政策のための事業を見据えるものの(注26)、翌1938年4月、予算不足で解散となる(注27)。あくまでも「国際」的であろうとした画家・藤田は、満州事変後の日本にあって、「国際」が国家イデオロギーの海外向け宣揚と同義となっていくさまを目の当たりにし、その渦のなかに巻き込まれていく。戦時下の藤田の揺らぐ心情は、1939年4月の離日を促したと思われる。万国博覧会で沸くアメリカを経由して、藤田はパリへと向かった。しかし、このパリ滞在も第二次世界大戦の勃発により1年という短期間に終わる。1930年代の「国際」の意味の変容は1940年代の藤田の画業にも少なからぬ影響を与えたと思われる。さらなる検証を今後の課題としたい。ルたち』展図録(川村記念美術館ほか、2016年)所収。太平洋人種集完成へ」『東京朝日新聞』1935年1月26日朝刊13面。展図録、秋田県立美術館、2013年、100-104頁。30項。 「外務省の積極策 国際映画協会生る」『キネマ旬報』553号、1935年9月21日、28頁。 前掲「文部、外務、逓信の三省が国策映画の製作に進出」『キネマ旬報』。― 263 ―― 263 ―

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