前注⑼山本氏論文参照。 竹居明男「醍醐寺琰魔堂とその周辺 ─宣陽門院・九相図壁画・宗達─」(『仏教芸術』134号、 森末義彰「研究資料 中世長谷寺再建記録」『美術研究』(62号、1937年)に翻刻収録。 『長谷寺験記』(新典社善本叢書2、新典社、1978年)。 前注⑵杉崎氏論文参照。 閻魔王像頭部は独閻魔堂に安置されていたといい、江戸時代の『初瀬山之図』(あべのハルカス美術館所蔵)などでは独閻魔堂と大閻魔堂が併記されているため、直ちに両者が一具として安置されていたとは断定できない。① 元興寺文化財研究所編『豊山長谷寺拾遺 第3輯 彫刻』(総本山長谷寺文化財保存調査委② 米屋優「閻魔王像頭部」解説(あべのハルカス美術館編『長谷寺の名峰と十一面観音の信 加藤基樹「閻魔の眼光」(富山県[立山]博物館編『立山×地獄』展図録、2016年)では鎌倉 前注参考文献参照。 前注⑵杉崎氏論文参照。 前注⒇②森田論文参照。 ここで言う初期の事例とは以下の通りである。 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』(寒河江市、1994年)。成 鎌倉時代 造像銘記篇』第4巻、中央公論美術出版、2006年)。⒂この点については前注⑵杉崎氏論文で既に指摘されている。⒃本論では、他の磨崖仏よりやや遅れた13世紀に入ってからの作例と、ひとまず考えたい。臼杵磨崖仏の研究史は仲嶺真信氏の論文に詳しい。仲嶺真信「昭和前半期における臼杵石仏の研究」、同「昭和後半期における臼杵石仏の研究」(別府大学文学部紀要『芸術学論叢』第15・16号、2004・2005年)。⒄鷲塚泰光「石仏龕」解説(『大和古寺大観』第3巻 元興寺極楽坊・元興寺・大安寺・般若寺・十輪院、岩波書店、1977年)。⒅銘文は閻魔王像の首枘に記される。鎌倉市文化財総合目録編さん委員会『鎌倉文化財総合目録─書跡・絵画・彫刻工芸篇─』(鎌倉市教育委員会、1986年)。⒆津田徹英「自得寺 十王像、司命・司録像」解説(神奈川県立金沢文庫編『地獄と十王図』展図録(1991年)。⒇造像当初は五尊形式であったと思われるが、後世に十王像として再興された可能性のある例として、神奈川・円応寺像と兵庫・石峯寺像があげられる。①森田龍磨「円応寺初江王像再考」(『仏教芸術』343号、毎日新聞社、2015年)。② 川瀬由照「閻魔王像、太山王像、冥官像(石峯寺)」解説(水野敬三郎他編『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』第10巻、中央公論美術出版、2014年)。1981年)。員会、2005年)。仰』展図録、2016年)。時代の説が提示された。筆者は鎌倉時代としても14世紀に入るのではないかと考える。・醍醐寺閻魔天騎牛像(12世紀前半)/待賢門院(鳥羽天皇中宮)御産の本尊。・鳥羽閻魔堂(1140)/鳥羽天皇の御願により建立。・長谷寺(安養院) 閻魔堂(1219~26年頃)/安養院は白河天皇の本願により建立か。・醍醐寺閻魔堂(1223)/宣陽門院(後白河天皇第六皇女)発願により建立。― 18 ―― 18 ―
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