感を与えようとする画人にとっての、迫真表現のモデルに過ぎなかった可能性もある。小禽の場合、種表現について粉本以上の正確さが必要な理由は少なく、一時の写生の知見が流派全体の図像を決定的に更新したとも思われない。室町時代における花鳥写生の実態それゆえ写生の効要はかなり限定的であったかもしれないが、なされる必要があり、またなされてきた伝統もあった。17世紀後半の『丹青若木集』によれば、先に触れた鎌倉時代作と伝わる伝藤原長隆「花鳥草木写生図巻」原本は下谷御徒士町狩野家の所蔵であったという。これが室町時代から狩野家で知られていたかは不明だが、セグロセキレイの絵画化事情などを慮るに、花鳥の観察と写生は中世から断続的に行われたと想像される。当時の写生実態を証言する資料は極めて限られるものの、迫真的な花鳥画を称える資料は散見され、僧成光の描いた鶏図が迫真のあまりニワトリに蹴られたという逸話(『古今著聞集』)、室町時代中期に白鶴図について「画上に能く写し出す」と評した希世霊彦の詩(『村庵藁』上)、日本製か不明な花卉図だが建仁寺僧栴庵の蔵する山茶梅花図帖について「是れ誰ぞ巧みに写生の手を弄するや」と感興を謳った横山景三の詩(「題栴庵老人所蔵山茶梅花画帖」『補庵京華後集』)などがある。実物が現存しない今、それらの迫真的表現の詳細は知り得ないが、「鳥類図巻」成立をやや遡る室町時代中後期には特定の花鳥を観察し、絵画化したと思しい記録も見受けられて興味深い。著名な言及は長禄2年(1458)の希世霊彦「題画錦鶏」(『村庵藁』上)で(注9)、足利義政から舶来のキンケイを賜った細川持賢が「其の賜ひしを嘉びて」、居館の障壁画にその姿を描かせた際の記録である。希世はその有り様を…[前略]、余、因りて其の堦前を窺ひ見るに則ち馴れ畜せらる者有り、其の壁上を見るに則ち写生せらるる者有り、…[後略]と対比的に記した。描かれた珍禽と現実の輸入禽鳥の比較連想は、孔雀図屏風を詠う江西龍派(1375~1446)の詩にも見られる(注10)。詩は鳥の将来と写生が直結していたことの証明にはならないが、江西が国産花鳥画に描かれる珍禽の姿に生々しさを感じたのは、ひとえに実物が輸入されているという現実による。その上で希世は持賢の愛したキンケイの絵画化を特に記録したのだが、それは将軍から賜った鳥の肖像として重要であったからで、他に画人たちが折々に得たかもしれない大小の舶来鳥を囲む機会やその時の行動は記録に残らない。― 274 ―― 274 ―
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