論考に依りつつその概略を記す(注22)。まず、遼僧・非濁が編纂した『随願往生集』は20巻の往生伝集である。現在は佚書であるが、その書名は高麗僧・義天(1055-1101)により『新編諸宗教蔵総録』(義天録)巻2に著録されている。また東大寺の宗性(1202-1292)自筆の『弥勒如来感応指示抄』第3にも認められ、鎌倉時代学僧に用いられた跡がある。塚本氏は『随願往生集』の伝来について、義天がこれを推賞し宋へ贈ったように日本へも寄贈した可能性と当時の入遼僧明範がもたらした可能性を挙げるが、いずれにせよ11世紀の終わり頃に日本に伝来したと推測している。李氏によれば『要略録』は『随願往生集』から抄出、再編した全3巻からなる往生伝集である。周知の如く12世紀初期成立の『今昔物語集』がこの書を大いに翻案するのでこの頃までには日本に伝来していたとみなせる。中国と朝鮮の史書にその名が一切見られないため、遼から日本へ直接伝来した可能性が高いという。さらに塚本氏によれば真福寺本『戒珠往生伝』は、日本において『随願往生集』から説話を抄出し3巻本の往生伝集とされたものである。その際には、当時その名が知られていた北宋飛山の僧・戒珠が1064年に撰述した『浄土往生伝』3巻に仮託され世に出た。その流布状況を鑑みて、12世紀後半頃京都周辺に成立したと考えられるとする。後述の如く遼代説話集の流布状況を見るに、極楽寺本の説話撰者は『要略録』と真福寺本『戒珠往生伝』の2書、もしくはその2書を包摂した内容を有すと思われる『随願往生集』を参看していたと考えられる。ただし姜略の図像だけは『法苑珠林』と真福寺本『戒珠往生伝』にも収録されるため、いずれを見たかを俄かには判定し難い。さて、唐の『法苑珠林』や上記の遼代説話集の成立にはタイムラグがあるが、これらを共に引用する態度は12世紀から13世紀にかけて散見できる。例えば唱導資料では、天仁3年(1110)の300日間の説経の記録『百座法談聞書抄』(注23)、諸菩薩の感応霊験説話が集成される平安末期書写の金剛寺本『佚名諸菩薩感応抄』(注24)には『法苑珠林』と『要略録』から、建久年間(1190-1199)成立の天台宗安居院流の唱導集『言泉集』(注25)には、両書に加え真福寺本『戒珠往生伝』からも説話が引用されており、唱導の資料として用いられているのである。またこの様な唱導資料の中には、極楽寺本に描かれた説話を収めるものもある。『言泉集』五部大乗経帖には阿輸沙国婆羅門の説話、『佚名諸菩薩感応抄』普賢感応部には秦安義の説話が引かれていることが確認でき、唱導と説話画とが資料を共有してい― 286 ―― 286 ―
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