たことも窺える。3.鎌倉時代における遼代仏教説話集の利用この遼代仏教説話集は、唱導資料のみならず鎌倉時代の仏教絵画においても大いに用いられていた。簡単に列挙していこう。阿部美香氏は、貞応2年(1223)に宣陽門院の御願により遍智院僧正成賢が建立した「醍醐寺焔魔王堂」の壁面には地獄に纏わる説話が計43話描かれていたことを『醍醐寺焔魔王堂絵銘』(国立歴史民俗博物館所蔵)から読み解いた(注26)。その中に『要略録』もしくは真福寺本『戒珠往生伝』、もしくは両書の内容を包摂する『随願往生集』から説話を引いた可能性のある図像が5つ挙げられ、極楽寺本に描かれる阿輸沙国婆羅門の説話も含まれる。なお焔魔王堂には極楽寺本のうち『法苑珠林』を典拠とすると思われる周武帝、僧規、劉薩荷の図像も描かれたようである。塚本氏は貞応3年(1224)に四天王寺別当の慈円(1155-1225)が再建した、「四天王寺絵堂」について指摘する。知恩院本「法然上人絵伝」巻第15第3段の詞書は絵堂壁面には九品往生人が描かれ、各々の上部に漢詩と和歌が書きつけられていたことを伝えており、氏はその9つのうち4つが真福寺本『戒珠往生伝』を出典とすることを証明した(注27)。この2例を挙げるだけでも、如何にこれらの説話集が流行していたかが窺える。論者は加えて、13世紀末から14世紀初の制作と思われる仏教説話画である金戒光明寺蔵「地獄極楽図屛風」のうち、少なくとも阿輸沙国婆羅門と僧の玄通の図像はやはり遼代仏教説話集を参照して描かれたと考えている(注28)。玄通は真福寺本『戒珠往生伝』にのみ載録の説話であるため、その可能性が高い。また真言僧・覚禅(1143-?)が仏教の図像や口伝に関わる資料を集成した、平安末期から鎌倉初期成立の『覚禅鈔』について、大原嘉豊氏と山崎淳氏により興味深い指摘がなされている(注29) 。大原氏は巻第7阿弥陀法巻下「五十二身像」条、同「造丈六造往生」条に真福寺本『戒珠往生伝』が参照された形跡を認める。山崎氏は巻第9釈迦如来法形像門「金像木像元起」、同「絵像先跡」、巻第65不空羂索法「治衰微国」、同「形像」は『要略録』が出典だと明記して説話を引用していると指摘する。これらは遼代仏教説話集の利用が説話画や唱導資料のほか、さらに図像集まで広がりを見せていたことを示している。― 287 ―― 287 ―
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