鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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(2)ウィーン工房と上野伊三郎、リチ夫妻通商条約を締結したことにより、日本の美術工芸品がヨーロッパに輸出され、シノワズリの一要素にとどまらない、ジャポニスムという新たな流行が起こった。ジャポニスムの中心はパリであり、その発端は1856年、北斎漫画の発見とされている。本稿で考察対象とする上野リチとブルーノ・タウトの出身地であるウィーンとドイツではジャポニスムの流行は比較的遅く、ドイツでは1869年にユストゥス・ブリンクマン(1843-1915年)によりハンブルク工芸博物館が創設され、日本美術の収集がはじまったこと、またウィーンにおいては、1873年に明治政府がはじめて参加したウィーン万博が開催されたことがそれぞれ契機となったと指摘されている(注1)。ウィーンでジャポニスムが日本の美術工芸作品の収集や、いわゆる日本ブームというのみにとどまらず、デザインの中に創作の特徴としてはっきりあらわれるのは1897年のウィーン分離派結成以降である。1900年の第6回分離派展は「日本美術展」と銘打ち、浮世絵や刀の鍔など691点で構成されたアドルフ・フィッシャー(1856-1914年)の日本美術コレクションを展示するものであった。また、ウィーン万博の出品作品を多く購入、展示した、オーストリア帝立=王立芸術産業博物館(現ウィーン国立工芸美術館)に隣接するウィーン美術工芸学校で、ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956年)、コロマン・モーザー(1868-1918年)をはじめとするウィーン分離派、またのちのウィーン工房のメンバーの多くが教鞭をとっていたことが、ジャポニスムの影響を創作に反映しやすい環境をととのえたと考えられる。ウィーン分離派におけるジャポニスムを象徴する、グスタフ・クリムト(1862-1918年)の《希望II》(1907-1908年)や、モーザーの《三人の女性の屏風》(1906年)はこのような環境で制作された作品であった。ウィーン工房は、ホフマン、モーザーの二人を実業家フリッツ・ヴェンドルファー(1867-1939年)が支援するかたちで、1903年に設立された。フェリース・リックス(上野リチ)は、1913年にウィーン美術工芸学校に入学、ホフマンに師事し、卒業直後の1917年から工房に参加した。一方、上野伊三郎は、1922年に早稲田大学建築科を卒業後、ベルリン、ウィーンに留学し、1924年8月から11月までホフマンの建築事務所に勤務していたことが確認されている(注2)。1925年に二人は結婚し、翌年帰国、伊三郎の故郷である京都を中心に建築家、デザイナーとして日本で活動をおこなった。ウィーン工房でのリチは、鮮やかな色彩のプリントデザインや、スイス・サルブラ― 307 ―― 307 ―

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