鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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(2)来日後の変化とができる。鶏、孔雀というリチの作品に年代を問わずたびたび使用されるモチーフにおいて、冠羽、尾の誇張された曲線は平面的な装飾性を強調する表現であり、日本からもたらされた染型紙にみられる密度の高い円や曲線の図像の応用とみなせるのではないかと考える。さらに、ペッヒェの比較的色数を抑えた配色に対し、リチの色彩豊かな表現はヨハネス・イッテン(1888-1967年)の色彩論にも通じる。バウハウスやイッテン・シューレにおけるイッテンの創作、教育活動や、竹久夢二(1884-1934年)、水越松南(1888-1985年)をはじめとする、日本人芸術家との交流により生まれた新たな日本へのまなざしを、同時代の建築、デザインの動向としてウィーン工房やリチが共有していた可能性も十分に考えられる。この点については今回残念ながら具体的な検討には至らなかったが、本研究によって得た視点であり今後調査をすすめたい。上野伊三郎、リチ夫妻が日本に帰国した翌年の1927年7月2日、伊三郎、本野精吾(1882-1944年)ら6名により、日本インターナショナル建築会が結成された。夫妻は雑誌『デザイン』(1927-1935年)や日本インターナショナル建築会の機関誌である『インターナショナル建築』(1929-1933年)の刊行に携わり、リチは表紙、巻頭のデザインを担当した。1930年竣工の「スターバー」をはじめ、伊三郎が設計し、リチが内装デザインを手掛ける建築作品が1930年代半ばまで多くつくられるが、ほとんど現存していない。1936年、タウトの推薦により伊三郎が群馬工芸所の所長の職を得ると、リチとともに高崎に居を移し、1939年に退職するまで京都を離れるが、終戦後は京都にもどり、作品制作と並行して後進の育成をおこなっている。リチの来日後の作品である京都都ホテル貴賓室の壁紙《花鳥》〔図4〕、および壁紙《野の花と鳥》〔図5〕では、1920年代の作品に比べて明らかな図案の単純化がみられる。日生劇場レストランの壁画など一部の例外をのぞき、誇張された曲線やパターンの重なりは失われ、色彩もトーンを抑えた表現に変化する。しかし、壁紙や内装デザインにおいて失われた特徴は七宝の飾箱やプレートのデザインに残った。これらの表現の変化は、山野英嗣氏の指摘する上野伊三郎、リチ夫妻の「建築から工芸へ」(注5)という歩みと軌を一にしており、ヨーロッパ市場向けに輸出された日本の美術工芸品と、気候、地理的条件から定期的な修繕、建て替えを前提とする日本の建物の特徴や、簡素な意匠との差異への関心が反映されていると考えられる。― 309 ―― 309 ―

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