鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
32/507

③新潟の絵師五十嵐浚明─その活動と評価─研 究 者:新潟市歴史博物館 学芸員  中 村 里 那はじめに五十嵐浚明(1700-81)は、新潟では筆頭に挙げられる絵師だが、池大雅(1723-76)22歳の作品「渭城柳色図」が贈られた相手として知られていることが多い。浚明は京都で法眼位を得たのち、新潟に居を定めてからも勅命で画を献上したほか「呉浚明」の名でしばしば出版物に登場する。なぜ新潟在住でありながら名が知られたのか。関西に存在したことが確認される作品を考察し、上方における浚明の活動の実態を探る。1.浚明の経歴と「呉浚明」浚明の経歴は、大坂の儒者片山北海(1723-90)が、浚明没後の翌年に撰文した墓誌銘によって知ることができる(注1)。それによれば、30歳で江戸へ出て狩野派に学んだのち帰郷し、その後京都へも遊学して法眼位を得たという。浚明が使用した印の一つに「延享改元春叙法眼位」(朱文方印)があり、延享元年(1744、2月21日改元)45歳の叙任がわかる。この直後に帰郷したようで、大雅が画を贈ったのはまさに延享元年の2月、帰郷する浚明への送別の画であった。また、安永6年(1777)には勅命によって画を献上したという。新潟の神明町肝煎を務めた佐藤家の文書には、この功績に対して、当時新潟を治めていた長岡藩主から銀5枚が浚明へ下されたと記されている。天明元年8月10日に息を引き取り、菩提寺の善導寺(新潟市中央区)に葬られた。同寺には、この北海による墓誌銘を刻んだ碑が後世建立され、今に残っている。彼は「呉浚明」という名で知られたようだ。天明6年(1786)に出版された書画鑑賞のための人名辞典『新撰和漢書画一覧』では、「俊明 五十嵐氏省テ五ヲ呉トシ、呉俊明トス、字方徳孤峯穆翁ノ号アリ、越後ノ人画法一家ヲナス、安永天明ノ間ニ没ス」と紹介されている。安田篤生氏によれば、この「一家ヲナス」という評言が当時の新しい評価基準だったという(注2)。この書は何度も版を重ねて普及した。また、絵師番付にも「呉浚明」で登場する。木挽町狩野家の朝岡興禎が編述した『古画備考』所収の『古今丹青競』(30上附録、1246頁)は、室町~江戸時代の画家を格付けしたものだが、明和期に活躍した絵師として「呉浚明」の名がある(注3)。なお、「当時高名画人」とされた画家をみると、文化年間中か遅くとも文政期前半ま― 22 ―― 22 ―

元のページ  ../index.html#32

このブックを見る