(1)初期絵画作品《湖畔》(2)『画帖 桂離宮』の樹木3 ブルーノ・タウト次に、比較対象であるタウトについても同様に、ジャポニスムの影響と来日前後の作品の変化を考察する。ジャポニスムの影響については、タウト自身が著作『新しい住居─つくり手としての女性』(1924年)のなかで醍醐寺三宝院の写真を掲載したほか、『ニッポン』(1934年)においては、20歳のころに日本の布地の図案や木版画の研究をおこなっていたことに言及している。ユーゲントシュティルやブリュッケをはじめとする作家たちによる日本の木版画、とりわけ枠や格子として樹木を効果的に配置する手法の応用は、1897年にヴォルデマール・フォン・ザイドリッツ(1850-1922年)の『日本の多色刷木版画史』が出版されたことに端を発している。同様の影響が、《森の風景》〔図6〕など、若き日を過ごしたコリーンの森を描いたタウトの初期絵画作品にもみられることが長谷川章氏によって指摘されており(注6)、本稿では同じくコリーンの森と湖を描いた《湖畔》(図7)を対象にジャポニスムの影響を考察する。《湖畔》は1898年の制作であり、タウトの最初期の作品といえる。木々を片側に配置し、前景の樹木から後景である湖への視線の誘導、また、垂直、水平方向の対比などは、西洋の伝統に則った構図であり、ここでは樹木は枠として機能しない。しかし、遠近法による奥行きとは対照的に樹木は《菩提樹の梢》(1903年)を思わせる平面的な描写がなされている。また、枝葉が画面の4分の3ほどを覆っている点にも、木版画への意識がうかがえる。先述の『ニッポン』によれば、タウトのジャポニスムへの関心は20歳前後からであり、《湖畔》はジャポニスムを自身の絵画に応用する試みの一環とみなすことができるであろう。タウトは1933年5月3日に日本に到着し、翌5月4日に上野伊三郎、リチ夫妻とともに桂離宮を訪問した。さらに翌年の1934年5月7日にも訪れ、その二度の訪問の記憶をもとに描いたのが『画帖 桂離宮』(以下『画帖』)である。桂離宮は17世紀に建造された、八条宮家、のちの桂宮家の別荘であり、第12代桂宮であった淑子内親王(1829-1881年)の死去により桂宮家が断絶したのち、1883年に宮内省の管理下におかれた。約58,000㎡の敷地は、古書院をはじめとする建物群と庭園中央の大きな池、池の周辺と中島に点在する4つの御茶屋(月波楼、笑意軒、賞花亭、松琴亭)、および持仏堂で構成される。『画帖』は27枚のスケッチで構成され、文字のみの7枚をのぞく20枚から、本稿で― 310 ―― 310 ―
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