は樹木と水というモチーフを《湖畔》と共有する第9葉〔図8〕に注目する。『画帖』における桂離宮の描写は、大きく前半(第3葉~第13葉)と後半(第15葉~第21葉)に分けられる。前半は門から入り、池に沿って庭園をめぐる様子が描かれ、後半は鴨居、金具、窓など、建物群の室内の一部がそれぞれ取り上げられ、タウトの解説とともに描かれる。第22葉以降は、タウトが桂離宮の設計者と認識していた小堀遠州(注7)を賛美する文章が続くなかに、比較対象として伊勢神宮、修学院離宮、および日光東照宮が挙げられている。本稿でとりあげる第9葉には、松琴亭から中島へ渡り、賞花亭へ移動する途中の光景が描かれている。第9葉は三つの要素からなる。まず右側には丘から見下ろした松琴亭西の船着き場が描かれ、中央には樹木とその背後に池の水面、また上空に月が配置される。さらに樹木の端にやや重なるように、左側にはおそらく中島へ渡る土橋とそれに続く飛び石と思われる登り坂が描かれている。詞書も各要素に対応し、左および中央上部にはそれぞれ「丘へ/木々の背後に水がかがやく」(注8)と添えられる。中央の樹木〔図9〕は《湖畔》とは対照的に曲線で描かれ、水は木々の間に描き出される。視線を誘導するための前景としてではなく、遠近法を用いない、枠としての機能が、意識的に樹木に付与されていることがみてとれる。これはクロード・モネ(1840-1926年)の《トルーヴィルの海岸》(ボストン美術館、1881年)にもみられる、浮世絵への関心をうかがわせる表現であり、離日後、1938年にトルコから水原徳言に送った書簡〔図10〕に同じ構図で樹木と水が描かれている。日本で墨という新たな画材を得、また「日本美」を求める新たな鑑賞者を得たことによる表現の変化ととらえられる。1920年代のジードルング建設において色彩の建築家と評されたこと、また数少ない日本での実作である「旧日向邸」にも鮮やかな彩色を施していることから比べると、来日後のタウトの絵画表現は意外なほど簡素な配色になっている。これは、日本における墨絵との出会いの影響と考えられる。リチの項で触れた、イッテンがヨーロッパで竹久夢二から学んだ墨絵と、タウトが来日外国人作家として触れた墨絵との比較分析も今後の課題としたい。おわりにタウトの約3年半という滞在期間に対し、リチは30年以上日本で暮らし、日本で没している。伊三郎とともに1963年にはインターナショナルデザイン研究所(1993年に京都インターアクト美術学校と改称、2009年閉校)を創設するなど、後進の育成にも― 311 ―― 311 ―
元のページ ../index.html#321