鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴西川智之「ウィーンのジャポニスム」『名古屋大学言語文化研究叢書』第5号、2006年、63-82力を入れた。一方タウトは、建築の実現の機会にめぐまれないなかで、前述の『ニッポン』や『日本文化私観』(1936年)などの著作を多く発表し、そのなかで提示された日本美は、現在まで議論の対象でありつづけている。この滞在期間の差、またとりわけ建築界におけるタウトの知名度により求められた役割の違いが、リチとタウトのまなざしの相違、そして逆輸入されたといえるジャポニスムの表現の変容に反映したと考えられる。しかしながら、工芸、および住居との密接なかかわりという点で、リチとタウトの作品は重要な共通項をもつ。日本建築界、デザイン界における1930年代は、モダニズムと「日本的なるもの」とのダブルスタンダードの狭間にあっただけでなく、工芸への関心の高まりによりその融合が図られた時期でもあった。さらに、ヨーロッパにおける日本美術の影響も、本稿で概観した19世紀以来のジャポニスムの系譜という文脈にとどまらず、神秘主義とのかかわりなど同時代の動向の把握が不可欠であり、それらの検討を順次すすめていく。なお、今回ベルリン、ウィーンでの現地調査を予定していたが、先方との連絡の不備によりやむなく延期となった。しかし、本研究をおこなったことにより、調査を実施する上で重要な視点を見出すことができたと考えている。頁⑵山野英嗣「上野伊三郎・リチの活動に見る『東西文化の磁場』」『東西文化の磁場 ─日本近代の建築・デザイン・工芸における境界的作用史の研究』国書刊行会、2013年、33-62頁⑶高木陽子「染型紙とジャポニスム ─技術、図像パターン伝播の諸相」『お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報』第6号、2010年、87-95頁⑷鈴木佳子、「京都市立美術大学における上野伊三郎先生、リチ先生の指導について」『上野伊三郎+リチ コレクション展 ウィーンから京都へ、建築から工芸へ』京都国立近代美術館、2009年、28-29頁⑸山野英嗣、前掲論文、57頁⑹長谷川章「新たなブルーノ・タウト像を求めて」『ブルーノ・タウト 1880-1938 Nature and⑺『桂御別業之記』(作者、年代不詳)に記述があるほか、タウトがドイツで目にしたと思われる岡倉天心(1863-1913年)の『茶の本』(1906年)が小堀遠州に言及しているため、タウトにとって遠州の印象が非常に強かったものと推測される。現在は智仁親王、智忠親王父子が指揮をとったとするのが通説である。⑻原文「zum Hügel hinauf/Wasser glitzert hinter Bäumen」訳は筆者によるFantasy』セゾン美術館、1994年、12-18頁― 312 ―― 312 ―

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