鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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でには板行されたものと考えられる。『本朝近世画工鑑』にも、小結として天明期の「呉浚明」が載る(注4)。時代は没年を示しており、最も時代が下るのは天保期のため、それ以降の板行だろう。しかし、「呉」の姓は、北海の墓誌銘に「芝山納言某公、賜姓呉氏、不知何故、先生自六十至六十九用之、自知其非、改復五十嵐」とあり、「芝山納言」から賜ったもので使用したのは60-69歳(1759-68年)のみだという。確かに「法眼呉浚明」と署名する作品群で、上記の年代以外の作と判定できるものは見つかっていない。新潟出身で浚明の孫呉北汀(佐野其正)に画を学び、京都で岸駒・岸岱に師事した白井華陽(?-1836)の『画乗要略』(1832年刊)にも、「呉俊明」で載っている。これは広く引用されてきた画家伝で、『古画備考』の浚明項(27名画、1109-1111頁)も一部を本書に拠っている。だが、『古画備考』には補足として作品の落款が載っており、それは「法眼浚明製」・「法眼嵐方徳」(方徳は字)である。「呉浚明」の名が流布しており、作品の署名に関わらず、その名を前提に作品を見ていることがわかる。この状況は近代まで続いた。東京で刊行された『美術画法』33編巻11(1913年刊)、並木覚太郎著『柱林秋影』(1920年刊)、岡部薇香著『伝神録』第1巻(1922年刊)、東京美術倶楽部の売立目録『信州野原家蔵品入札』(1927年5月30日入札)には、「呉浚明」の作品が画像入りで載っている。ひとまず真贋は別として、いずれも呉姓落款ではない(注5)。浚明は45歳(1744年)には新潟へ帰郷している。もとより、なぜ新潟から出てきた絵師が短期間で法眼位まで進むことができたのか、またなぜ安永6年にわざわざ新潟の浚明に勅命が下ったのかも不明である。新潟の浚明は、関西とどのようにつながっていたのだろうか。以下、関西に存在した作品を取上げて、制作時期の傾向や関係者について考察する。2.作品考察①「文王田渭陽図」 明和7年(1770) 絹本墨画淡彩 一幅 縦64.0×横129.0cm 個人蔵〔図1-1〕関西に所在する浚明の作品は少なくないが、もともと関西にあったものとは限らない。はじめに取り上げるのはそのことを示す作品である。京都で実見した「文王田渭陽図」は、浚明71歳の作品で、署名には「孤峰浚明」とあり呉姓はすでに使われていない。周王朝の始祖文王が、渭水で釣りをしていた呂尚にこれから出会おうという場面を描く。人物は頭部が不自然に長い〔図1-2〕。この― 23 ―― 23 ―

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