鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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㉜ 久保田米僊研究─明治期京都画壇における日本画と近代社会の関係─研 究 者:京都市学校歴史博物館 学芸員  森   光 彦はじめに久保田米僊は嘉永5年(1852)に生まれ、明治前期・中期の京都画壇を幸野楳嶺と共に牽引した画家である(注1)。明治10年代から20年代初めには京都を、その後東京を拠点とし、フランス、アメリカ、朝鮮にも渡り、日本絵画が近代化を模索していた激動期に「日本画の新機軸」を標榜して活動した。近代を代表する思想家、ジャーナリストである徳富蘇峰は、米僊を高く評価して次のように語っている(注2)。 君は現代丹青界の覇才也。天資敏妙、加ふるに考察の周到さ、学習の博洽(はっこう、広く通じていること)を以ってす。君や流派に於て、株守する所なし。古今を論ぜず、東西を問はず、凡そ自個と触著したるもの、一として参照択採せざるなし。文章後半で言及されているのは、米僊が、近世から続いていた流派様式にこだわることなく、様々な絵画表現を学習し、それらを参考にして近代的、前衛的な日本画を創出しようとした事実である。その姿勢は、後の世代を代表する竹内栖鳳に大きな影響を与えている(注3)。従来米僊については、明治13年(1880)の京都府画学校設立や明治23年(1890)の京都美術協会設立に際する発起人として知られ、画壇の近代化に貢献した重要人物として、美術制度史上で名が挙げられてきた(注4)。しかし一方で、作品の分析、検討はされていないため、米僊が志向した前衛性について、画題や絵画表現を通じて考察されたことはなかった。本稿では、米僊の作品における前衛性を検証し、それが社会との交渉のなかで生まれたものであることを明らかにする。それは、明治期京都画壇近代化の一様相を明らかにすることに繋がるだろう。まず米僊の絵画学習を概観し、旧来の流派が課す制約から脱却しようとしたことを確認する。次に著述などを参考に、米僊にとって絵画の使命とは、社会と繋がり、役に立つことだと考えていたことを指摘する。それらを踏まえて、米僊の代表作である「漢江渡頭春光・青石関門秋色」〔図1〕を検討し、米僊作品の前衛性とは、流派にこだわらない様々な画法を、作品が持つ社会的役割を考慮した上で選択して描かれたこ― 338 ―― 338 ―

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