とであると結論付ける。1 米僊の絵画学習─流派様式からの脱却米僊は、著書において「法たり、流たり、派たるものの別は、画なる自然にそむき、また画の進歩に障碍を与ふるものなることを訴へざるべからざるなり、然るにまた流派たるものの、甚だ必要を感ずるものなし」と語っている(注5)。他に、米僊が発会の主力となり、幹事長を務めた京都美術協会発行の雑誌『京都美術雑誌』第1号、明治23年(1890)には「古人崇拝ノ弊ヲ去リ流派分立ノ風ヲ除キ」「巧ニ換骨脱胎の妙ヲ用ヒ新機軸ヲ出スモ怪詭ニ陥ラズ古意匠ヲ取リテ僻陋(へきろう、ひねくれて浅はかなこと)ニ失セズ以テ古人ニ愧(は)ヂザルヲ務ム」として、米僊たちが掲げた志が載せられている。これらからは、新しい絵画の創出に際して、流派にしばられることからの脱却を重視した米僊の考え方が見えてくる。明治初期の京都画壇では、江戸時代から続く流派を母体とする絵画制作が支配的であった。円山応挙が江戸期に創始した写生画の伝統を受け継ぐ、円山・四条派を一大勢力として、望月派、岸派、原派、鈴木派、土佐派、南画系、狩野派、浮世絵師系などが挙げられる。画家を目指す者は概していずれかの流派に所属し、師に画法を学び、師に認められて画家となった。学ぶのは主に流派特有の様式であり、結果として流派の画風を継承するのが一般的であった。米僊もまた、江戸後期に新興した鈴木派に所属し、祖である鈴木百年に師事した。鈴木百年の画風は主に四条派や岸派、南画の描き方を折衷して作られたもので、江戸後期には四条派の写生画風に近い描き方、明治期には主に、湿潤な墨色を用いて、強く、速い筆勢、短い墨線で描く、やや南画風を特色とした。米僊の作品を見てみたい。「蓬莱山図」〔図2〕は百年の典型的な画風のひとつで描かれており、百年筆「碧流小亭図」〔図3〕と共通している。しかし、「四季耕作・八坂神社図」〔図4〕は百年の画風と異なり、ゆったりした穏やかな画風、鮮やかな彩色が用いられ、四条派の塩川文麟などの画風に近い。「春景山水図」〔図5〕は筆点を重ねて山や林を描く米法山水で表した中国絵画風、「蓬莱山図」〔図6〕は筆勢が鋭く、斧劈皴といわれる鋭く直線的な岩面の表現が特徴的な、硬い真体山水で、狩野派の山水画などを彷彿させる。「蔦もみじ」〔図7〕では輪郭線を用いず空気遠近法によって空間の奥行きを表現しており、旧来の流派にもない新しさがある。以上の作品を並べ、そのバリエーションを見れば、米僊が鈴木派の画法にこだわることなく、実に様々な絵画表現を学習していることが分かり、冒頭で紹介した蘇峰の評価とも合致する。な― 339 ―― 339 ―
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