鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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幅 法眼浚明筆」という作者名等が蓋裏にあり、表側に「橋立 讃 廣橋大納言兼胤卿/冨士 讃 久我前右大臣通兄卿/松嶋 讃 柳原大納言光綱卿」とある。久我通兄(1709-61)が「前右大臣」とされるのは、宝暦5年(1755)1月28日に右大臣を辞して、後任の九条尚実が左大臣に転任する宝暦9年まで。その間で廣橋兼胤(1715-81)と柳原光綱(1711-60)が「大納言」とされるのは、光綱が権大納言に任ぜられた宝暦5年1月29日から、兼胤が同官職を辞した同年6月24日までに絞られる。また、片山北海の墓誌銘が正確であれば、4年後の宝暦9年浚明60歳までに、「芝山納言」から呉姓を賜っていることになるが、この時期で該当する人物は、宝暦2年に権中納言を辞任しているものの、芝山重豊(1703-66)しかいない。浚明と公家との関係については、そもそも法眼位の叙任が、宝暦事件で知られた同郷の竹内式部の助力によるのではないかとする説が、戦前から提示されていた(注8)。竹内式部(1712-67)は、新潟の医師の家に生まれ、享保12年(1727)頃に上京して徳大寺家に仕える一方、儒学・神学を修め、垂加神道を学んだ。式部もまた、浚明が延享元年に帰郷する際に賛文を贈っている(注9)。式部に学んだ徳大寺公城をはじめとする公家たちが、天皇へ日本書紀や儒書を進講したのに対し、宝暦8年(1758)関白一条道香ら朝廷執行部は、式部の教説が王政復古を目指すものと危惧し彼らを罷免・永蟄居、式部を重追放に処した。徳大寺公城の父実憲は元文5年(1740)に死去しており、公城は同年12歳で叙爵する。寛保3年(1743)年に元服して左少将に、翌年には右中将に任ぜられているが、このとき16歳。浚明の法眼叙任はこの年であり、叙任の経緯についてはなお検討が必要と思われる。ただし、処罰はされていないものの、久我通兄や芝山重豊も式部の講義を受けたという(注10)。呉姓を名乗り始めたとされる宝暦9年は宝暦事件の直後であり、また、永蟄居に処せられていた公城は安永7年に許されているが、これは浚明が勅命により画を献上した翌年であることも留意される。なお、天皇への献上に際しては浚明自身が上京しただろう。ひとまず、宝暦5年の「富士・橋立・松島図」の着賛に、式部が関わっている可能性は否定できない。少なくとも、同じ新潟出身の2人のつながりは、この時点で知られていた可能性が高い。④「天神湧現図」 延享2年(1745)賛 絹本着色 一幅 縦110.0×横44.0cm 個人蔵〔図4〕大森慎子氏によって紹介されたもので(注11)、延享2年2月の賛があり、署名は― 25 ―― 25 ―

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