鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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お、米僊の学習は洋画にまで及び、明治12年(1879)の第八回京都博覧会において、日本画と油絵の両方を出品している(注6)。米僊が否定したのは、古来の画法そのものではなく、流派という区分けによって決まった画法を無批判に受け入れることであった。絵画制作と画法について、「古来の高名画師とよび傚されたる人は、一筆苟もせず、一丹容易に布かず、その一線一描は、古人の真意を考察し、その宜しきに従ひて筆を下し、決して一派一法たるものに拘泥することなし、(中略)まことに彼れ等は先人の遺鉢(ママ)を踏襲せずして、自己一箇の実験と想像とによりて画をなしたり」と語り(注7)、画家自身の慎重な判断によって画法を選択する大切さを主張している。京都美術協会が掲げた「新機軸」の絵画の創出という理念も、以上のような米僊の考え方と一致している。米僊は、流派に固執した画法、画風の再現のような絵画制作を否定する一方で、画家自身による判断をする際の根拠となるべきことにも言及している。それが著書『画法大意』に見られる、「時世の変遷」という考え方である(注8)。 一国古有の性格は、絵画の流派を維持する原因たり、然れども尚他に「時世の変遷」なるものありて、大に流派の変化を醸生するに力あり(中略)皆その国特有の性格に従ひ、またその世代時々の変遷によりて、各特異の風趣を伝へ来りて、以て得意の画法を誇示せるこの文章で米僊は、一国が古来持っている性格があり、それが各流派における伝統的な画法を規定してきたと指摘している。ゆえに基本的な画法自体は尊重すべきものであるとする。しかし一方で、絵画の描き方は「時世の変遷」によって大きく変化してきたもので、流派の風趣も時代に左右されることが自然であり、作品は世代の推移に応じた形跡であるべきだとしている。すなわち、伝統的な画法を参考にしながら、画家が生きる時代を反映した絵画を理想としているのである。絵画に同時代性を求めることを重要とし、米僊自身は明治という新時代に即した新しい絵画を作ろうとしていた。以上1章では、米僊が無批判に、決まった画法のみを受け入れる流派様式から脱却するため、様々な画法を学習、実践していたことを確認した。これにより多くの画法を習得し、表現のための選択肢を増やしたと考えられる。どのような表現を選択するかについては、画家が、自身の生きる時代を把握した上で行われるべきだとした。― 340 ―― 340 ―

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