鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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2 米僊が絵画に求めた「用」米僊は著書において、自身を「絶対的の社会画論」者であると述べている(注9)。対して、四条派の継承者となっていた幸野楳嶺は絶対的保守主義であり、会いさえすれば画論を闘わせていたという。ここからは、米僊が絵画にとって、社会に役立つことを最も重要だと認識していたことが分かる。それをよく示す作品が「鳳凰城合戦図」〔図8〕である。銀地の屏風に、明治27年(1894)に始まった日清戦争における鳳凰城陥落の場面を描いている。米僊は明治23年(1890)に、徳富蘇峰が創刊した国民新聞に参加するため上京、後に日清戦争が起こると、国民新聞の派出員として従軍し、朝鮮に渡航した。そこで戦争を取材し、「鳳凰城合戦図」を完成させた。ここで注目したいのは、日清戦争という当世の出来事、いわば時事問題を主題にした屏風を制作した意図である。米僊は国民新聞に参加し、絵画を用いた報道(注10)を行う理由について、「私の曾て考へて居つたのは、画と云ふものは人を啓発したり、人を開発したりの責があるから、一つ其の責任を尽して見やう」(注11)としたと語っている。さらに、日清戦争に従軍した理由については、 此の時に於ては絵画と云ふものは、御承知の通り只平時の娯楽のものに見て居るが、併し天が万物を生するや、必ず人間に一の用を与へて居る道理で、天が絵に其の用を与へたのは此の時だらうと感じ、絵画は人を娯楽せしめ、又人を啓発せしむるとがあるが、其の啓発は此の時であると感じたと述べている(注12)。時事問題である戦争を、作品の主題に選んだことについては、「後三年合戦絵巻」(貞和3年、東京国立博物館)を念頭に置いていたという。この絵巻は戦争の状態を写したものであり、当時の惨状をつまびらかにして、追懐できることに価値があると指摘し、これこそが絵の「用」であると述べている(注13)。この一連の文章からは、米僊は絵画について、単なる娯楽ではなく社会的役割、本人の言葉でいう「用」を強調していることが分かる。「鳳凰城合戦図」の場合、「後三年合戦絵巻」と同様に、鑑賞者が追懐できるように、正確な情報を描き、惨状を伝えて啓発に繋げることを目的として制作されたと考えられる。「鳳凰城合戦図」は六曲一双の形式を取っており、右隻に進軍する兵士が描かれている。さらに左隻に移ると清との交戦の場面となる。この右から左へ物語が展開する構図は、やはり合戦絵巻を彷彿させる。このようにして、米僊は社会と関係し、必要とされる絵画を目指していた。― 341 ―― 341 ―

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