鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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同様に、社会の役に立つことを意識して制作された作品に「園児遊戯図」〔図9〕がある。制作当時には最先端の教育施設であった幼稚園で、園児が唱歌遊戯を行っている場面を描いている。この作品は、明治21年(1888)に開園した尚徳幼稚園(のち楊梅幼稚園に改称)に米僊が寄贈したと考えられる(注14)もので、時世粧が描かれている。なぜ近代教育施設に絵画を寄贈したのかについては、米僊が表明した、絵画と教育の関係についての意見が参考になる。明治32(1899)年発行の『愛知教育雑誌』には、愛知県教育会総集会で行われた米僊の演説の速記が掲載されており、米僊は「絵画と云ふ物は社会に大必要な物」と説いている(注15)。絵画を通じて子供に教育を行えば、より効果的に知識を会得できるとして、「今日の教育は無論先生も教育の上に附て絵に依て智識を進めると云ふ事は御掛心になつて居ります」と語っている。ここでも米僊は、絵が社会にとっていかに役立つものかを主張し、絵画によって様々な感情を喚起させ、理想的な行動へ導くことを絵画の「用」と呼んでいる。明治期における教育機関に寄贈され、飾られたということを鑑みれば、「園児遊戯図」は子供たちに楽しいという気持ちを起こさせ、理想的な園児の姿を提示する啓発を行うものだったと考えられる(注16)。以上2章では、米僊が絵画の「用」と呼んだ、絵画と社会との繋がりを重要視していたことを確認した。ここで取り上げた2作品の画題がいずれも、従来日本画の画題として正統とはいえない、時事問題を取り上げていることからも分かるように、米僊は積極的に近代社会と関わろうとしている。それは前章で言及した、時代性を反映させるという課題を、米僊が実践した結果と考えられるだろう。画法に関して言えば、「鳳凰城合戦図」では鎌倉時代の合戦絵巻を意識し、「園児遊戯図」では鈴木派ではなく円山派の描写による人物の面貌表現を行っており、やはり様々な流派の画法が選択されていることが分かる。3 「漢江渡頭春光・青石関門秋色」の前衛性前章までを踏まえ、米僊の代表作「漢江渡頭春光・青石関門秋色」を検討してみたい。「漢江渡頭春光・青石関門秋色」は明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会に出品され妙技三等賞を受賞したと考えられる作品で、米僊が明治27年(1894)に日清戦争に従軍した際に見た朝鮮の山水景を描いたものである。戦況を写すために渡った朝鮮で、なぜこのような山水図が描かれたのか。米僊は以下のように語っている(注17)。― 342 ―― 342 ―

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