注⑴明治期京都画壇における米僊の主な業績は、明治11年(1878)の京都府画学校設立建議に参加、明治15年(1882)第一回内国絵画共進会における京都出品人代表、明治23年(1890)京都美術協会設立に尽力など。それは、画家の目で見た「雪舟元信の筆にある如き」風景をそのまま伝えるためであったと考えられる。近世的な流派の様式にしばられないからこそできる報道であった。以上3章では、「漢江渡頭春光・青石関門秋色」を検討した。この絵画が持つ前衛性は、戦地の真景という同時代的な画題を用いていること、それが報道という社会的役割を担っていること、そのために、多くの選択肢から自由に画法を選んでいることといえるだろう。おわりにもう一度まとめておこう。久保田米僊は明治時代の新しい絵画を創出しようとした。そのためにまず行ったことは、近世から続く流派様式による制約からの脱却であった。自身が所属する流派のものだけではなく、様々な画法を自主的に学び、表現手段を増やすことに努めていた。米僊が絵画にとって重要だと考えていたのは、社会の役に立つ、ということであり、それを絵画の「用」と称した。近代社会の役に立つため、従来京都画壇では画題にならなかった戦争や近代教育といった時事問題なども画題とし、それにあわせて画法も自在に駆使した。米僊作品は、伝統的な京都画壇の画法を使うため、一見古様にも見える。しかし社会的役割を果たすことを第一の目的とし、流派の異なる画法を自在に駆使できる点において、流派という旧体制に対抗する前衛性が認められるのである。⑵久保田米僊『米僊画談』松邑三松堂、明治35年、序⑶明治19年(1886)に発足した京都青年絵画研究会では、有志の青年画家たちが、流派への偏執をなくすべく集合した。栖鳳も参加し、米僊は幹事長という立場であった。栖鳳は米僊について、「久保田米僊先生は今日では余り重大視されない傾きがあり其点先生は其実価から比較して恵まれない人であるが、然し私達は翁の残した功績と言ふものに就いて、正当な評価を与えねばならないであろう」(竹内栖鳳「思ひ出」『美之国』4巻、昭和3年)と語っている。⑷原田平作『京都画壇 江戸末・明治の画人たち』(アート社出版、昭和52年)や松尾芳樹「画学校出仕について」(『京都市立芸術大学芸術資料館年報』18、京都市立芸術大学、平成21年)の他、多くの概説書などで言及されている⑸久保田米僊『画法大意 全』博文館、明治25年、39頁⑹福永知代「久保田米僊の画業に関する基礎的研究(1)『絵嶋之霞』の作品分析を中心に」『お― 344 ―― 344 ―
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