「法眼嵐浚明謹写」である。天神として信仰された菅原道真を束帯姿で描き、袍は道真と縁のある梅花紋を散らした紗の地で、赤い下襲が透けている。やや伏し目の穏やかな表情で、衣を太い墨線で描く半身像は、元文4年(1739)の「笑山全悦像」(新潟市江南区宗賢寺蔵)と共通する。この頂相は、狩野派一門が描いた京都萬福寺蔵「列祖図」に類例があり、狩野派に学んだものとみられる。賛者の魯山玄璠(1676-1751)は、南禅寺末寺圓光寺の住持で、享保16年(1731)から元文4年(1739)まで南禅寺294世住持を務めた(注12)。浚明との関係は不明だが、②「松竹梅鶴図屏風」の竹の描き方が南禅寺の襖絵に類似することは留意すべきだろう。なお、浚明は前年春の法眼叙任後帰郷しているので、一年後に再度上京したとは考えにくい。注文に応じて制作したものを送ったのか、叙任時に制作した画に後から着賛されたのかもしれない。⑤「逆旅勧杯」画巻 宝暦12年(1762) 紙本墨画淡彩 二巻 第一巻縦30.1×横1300.8cm・第二巻縦30.1×横1029.8cm 個人蔵〔図5-1〕本作品も、すでに加古川総合文化センターの特別展や『高砂市史』で紹介されたもの(注13)。署名は「呉浚明」、第1巻に画賛9対、第2巻に2人の息子の画18点と浚明画1点を収める。高砂の三浦迂斎が著した『東海済勝記』は、宝暦12年の東海・奥羽・北陸をめぐる旅の紀行文だが、このとき「二十年来知己」の「呉孤峯先生」(孤峯は号)を訪ねて「逆旅勧盃一大冊子」を贈られている。それが巻子に仕立て直されて現在に残ったもので、来歴の明らかな貴重な作品である。三浦家は高砂で製塩業を営んだ豪商で、廻船を所持して北国まで塩を回送していたという。迂斎(1703-67)は商いのかたわら、漢学のほか和学や地誌学を研究し、奇石や珍しい植物を集める博物学者でもあり、大坂の文人で収集家の木村蒹葭堂とも交流があった。20年前の出会いとすれば法眼叙任前であるが、63歳の浚明をすでに呉姓で呼ぶ点が注目される。頭部の長い人物も描かれているがすべてではなく、衣服のパターン化もまだ目立たない。だが、薄墨の多用や淡色による繊細な彩色のほか、父親に学んだ子の作品には、①「文王田渭陽図」で確認したものに似た皴法が見られる〔図5-2〕。⑥「寿老人図」 安永2年(1773) 絹本墨画 縦9.0×横9.0cm 「縮地玅詮帖」所収 静岡県立美術館蔵〔図6〕作品は9cm四方の小さな絹地に、背景に薄墨を施し、寿老人のみをやや速度のある筆で描く。福士雄也氏によれば、大坂の薩摩問屋・服部永錫(生没年不詳)が蒐集― 26 ―― 26 ―
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